ねはん
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
涅槃
nirvāṇa nibbāna
涅槃の語はおそらく後者の音写による。語原はnir-√vāで「(迷いや煩悩などを)吹き消す」が原義。それによって平安で寂静の境地にあることをいい、釈尊の到達した悟りの至高の境界を示し、仏教の最終的な目標とされる。原語のなかにふくまれる否定的な契機は、最初期の仏教資料である『スッタニパータ』に、この涅槃を、
「渇愛・欲望の滅」(916,1086,1109) 「執着の滅」(915,1087,1094)
と説く。それが転じて達せられた涅槃は、
「不死・寂静・不滅」(204) 「虚妄ならざる真理」(754)
であり、
「疑いを超え、苦悩を離れ、涅槃を楽しみ、貪欲を除き、神々をふくむ世界を導く」(86) 「正しく法を知って、涅槃の境地を求める」(365) 「涅槃に達するため、苦を終滅させるために、仏の説かれたおだやかな言葉は、もろもろの言葉のうちで最上」(454)
などと詳述して、涅槃を最も高く掲げている。
同時に、散文の初期経典には、たとえば「涅槃を想念・思惟する」と同時に,
「涅槃を思惟せず、涅槃を自己のものと思惟しない」と説く(MN.I.4-6)
など、涅槃そのものが再び執着される対象となることをしりぞけ、そのような対象とはなりえないという二重否定を列ねて、一種の超越を示している。この涅槃という真の超越がはたされてこそ、解脱・悟り・菩提は獲得されうる。
こうして初期仏教思想の根幹をまとめて三法印とする際、諸行無常および諸法無我とならんで、涅槃寂静が立てられて、現在にいたる。
なおニルヴァーナの語は、仏教とパラレルに成立し発展したジャイナ教においても、やはり究極の理想として掲げられており、むしろそれが仏教に導入された、と見る説もある。涅槃という安らぎの世界を得たブッダも、しかし肉身をとるかぎりは風熱老病などの苦は免れえないところから、そこにはなお完全な涅槃(これを特に般涅槃 parinirvāṇa,parinibbānaと呼ぶ)は達成されえないとして、入滅以前を有余(依)涅槃と称し、滅後に得られるのを無余(依)涅槃と名づけるようになる。この無余(依)涅槃においては、まったく制約のない完全で真実の涅槃が実現されるとする。さらに後代の部派仏教には、むしろ肉体的生命のなくなることを灰身滅智といい、これを涅槃と考える説も行なわれた。
また上述したように、一切を完全に超越した涅槃は、生死の世俗はもとより、涅槃そのものにも特にこだわらず、いわばとどまるところがなく、無礙自由であって、これを無住処涅槃と称する。部派仏教、特に有部のある種の固定した思想を突破して、龍樹は、世俗の迷いからはるかに隔絶したところにおかれた涅槃の悟りの境界を、彼独自の縁起―無自性―空の思想にもとづいて恢復し、生死即涅槃のあり方をあらためて示して、涅槃というゴールを日常世俗の実践との関連のうえに樹立した。これは大乗仏教の涅槃観の基盤となり、その広範な菩薩行を支えることになる。なお多くの教学においては、涅槃を、般若、法身、法性、真如などと同一視して、さまざまな説を展開している。