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− | + | 回向の心をもって修行する段階を十に分け「十回向位」とし、悟りへの重要な修行過程とする。自己の善根を仏果に向け、自我への執着を除去しようとする。善根は常に自ら以外の方向に振り向けられて功徳となり、我執が除去される。ここに回向の必然性がある。善根が積み重ねられて仏となるのではなく、すべての善根は回向されることに意味がある。 | |
'''回向'''には、一般に(1)菩提回向 (2)衆生回向 (3)実際回向の三種を説く。それぞれ菩提を趣向し、衆生に功徳を回施し、無為涅槃の趣求にふりむけるとする。<br> | '''回向'''には、一般に(1)菩提回向 (2)衆生回向 (3)実際回向の三種を説く。それぞれ菩提を趣向し、衆生に功徳を回施し、無為涅槃の趣求にふりむけるとする。<br> | ||
− | [[せしん|世親]]は「礼拝、讃歎、観察、作願、'''回向'''」と五念門を説き、[[おうじょう|往生]][[じょうど|浄土]]のための行の中、自ら修めた諸功徳をすべての衆生に回向して、ともに浄土に往生して仏となることを重要な項目としてあげている。<br> | + | [[せしん|世親]]は「礼拝、讃歎、観察、作願、'''回向'''」と五念門を説き、[[おうじょう|往生]][[じょうど|浄土]]のための行の中、自ら修めた諸功徳をすべての衆生に回向して、ともに浄土に往生して仏となることを重要な項目としてあげている。<br> |
− | ==== | + | 廻向者、謂、以一切施等諸行、願得阿耨多羅三貌三菩提果。〔『瑜伽師地論』75、T30・712a〕 |
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+ | : 「アーナンダよ、お前はどう思うか。もし布施が一切智者性に廻向されていないならば、それは布施波羅蜜の名を得るであろうか。」 | ||
+ | :アーナンダ長老はいった。「そうではありません、世尊よ。」 | ||
+ | :世尊はいった。「(一切智者性に)廻向されていない持戒、廻向されていない忍辱、廻向されていない精進、廻向されていない禅定についてお前はどう思うか。アーナンダよ、お前はどう思うか。一切智に廻向されていない智慧は、般若波羅蜜という名を得るであろうか。」 | ||
+ | :アーナンダはいった。「そうではありません、世尊よ。」 | ||
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+ | ここで「諸善根」というのは、布施ないし智慧の六徳目である。善根は、それが善行であり果報を生む根でもあるから善根であって、善業というに等しい。六徳目は世俗の善行であるが、それが一切智者性という仏陀の智慧、空の智慧に廻向され、転換されたときには、勝義的な完成・完全性をもつものとなる、というのである。布施も、精進も、その他の徳行も、すべて、空の働き、仏陀の働きに変わるといっているのである。ここにおいて、廻向の思想は完成されるにいたった、といってよい。 | ||
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+ | 『華厳経』「十行品」では、十波羅蜜(六波羅蜜に、方便・願・力・智の四波羅蜜を加えたもの)が、最も詳しく説かれている。次の十廻向の第一には、まず諸々の波羅蜜を行じ、無量の善根を修することが述べられ、次に | ||
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+ | ここには、はっきり「'''代受苦'''」の考え方が出ている。そもそも廻向というのが、自分が労苦して修行した功徳を他者にさし廻してしまうことであり、まさに'''代受苦'''の実践であろう。この修行なしに、菩薩道は完成しない。 | ||
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+ | この代受苦が、仏の側から凡夫の解脱に対して廻向される、ということであり、続く十回向への橋渡しとなっている。 | ||
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+ | '''回向'''すべき善行を実行しえないという自己反省によって、法を仰ぎ、法の力を受け取ろうとする。そこで回向を[[たりき|他力]]とみて'''他力回向'''として、仏の側から衆生に仏の功徳が回向されるのが、[[じょうどしんしゅう|浄土真宗]]でいう他力回向である。[[しんらん|親鸞]]は、この回向について[[おうそうえこう|往相回向]]、[[げんそうえこう|還相回向]]の二種を説く。<br> | ||
+ | '''往相回向'''とは、自分の善行功徳を他のものにめぐらして、他のものの功徳として、ともに浄土に往生しようとの願いをもととして説かれる。親鸞の場合、浄土への[[おうじょう|往生]]のための善行はすべて[[あみだ|阿弥陀]]仏の力によるのであって、阿弥陀仏がたてて完成した万徳具備の[[みょうごう|名号]]のはたらきによるとして、'''名号を回向される'''という。<br> | ||
+ | 次に'''還相回向'''とは「還来穢国」といわれ、浄土へ往生したものを、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いを言う。この利他のはたらきも、阿弥陀仏の'''本願他力'''の回向による。具体的には、庄松という[[みょうこうにん|妙好人]]が「私が捨てた念仏を喜んで拾う者がいる」と言うように、称名の声を聞いた時に、浄土からこの我々に働きかけているすがたと感じて、それに応えて称名をするすがたを言う。<br> | ||
+ | '''往相還相'''がともに阿弥陀如来の本願のままに衆生に回施され、衆生もこの阿弥陀如来と同じ悟りを開くことができるとする。これを他力回向と説く。 | ||
====回向文==== | ====回向文==== | ||
− | '''回向文'''といって「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」といい | + | '''回向文'''といって「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」といい また「願以此功徳 平等施一切 同[[ほつぼだいしん|発菩提心]] 往生安楽国」という。これは、仏事の最後に唱えられ、仏事を行った功徳を自らだけのものにすることなく、広く有縁の人々に回向するために読誦される。この意味で、寺や各家々で行われる仏事は、亡くなった人のためではなく、縁ある者すべてに向けての回向とする。<br> 後者の回向文は、しばしば浄土系諸宗派で用ゐられるが、浄土真宗では「此功徳」を阿弥陀仏の功徳とする。 |
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+ | [[ちえ|智慧]]を光に喩えて'''慧光'''という。[[さんえ|三慧]]のうちの聞所成慧と思所成慧をいう。 | ||
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+ | : 菩薩の慧光は一切の有情の煩悩を息減す。 | ||
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+ | 言慧光者、謂、即加行聞思成慧。 〔瑜伽師地論83、T30-761b〕 |
2024年11月22日 (金) 10:21時点における最新版
回向
廻向、pariṇāma परिणाम(skt.)
「パリナーマ」とは、「転回する」「変化する」「進む」などの意。中国では、回は回転(えてん)、向は趣向(しゅこう)。自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいう。善行の結果を人々のためになるよう期待し、それを果すのを衆生回向といい、善行の結果を仏果の完成に期待するならば、それを果すことは仏道への回向である。いわば、自分自身の積み重ねた善根功徳を相手にふりむけて与えることを回向という。寺院や僧侶に読経をたのむときに、廻向料などと表書きするのは、この理由による。
回向の心をもって修行する段階を十に分け「十回向位」とし、悟りへの重要な修行過程とする。自己の善根を仏果に向け、自我への執着を除去しようとする。善根は常に自ら以外の方向に振り向けられて功徳となり、我執が除去される。ここに回向の必然性がある。善根が積み重ねられて仏となるのではなく、すべての善根は回向されることに意味がある。
回向には、一般に(1)菩提回向 (2)衆生回向 (3)実際回向の三種を説く。それぞれ菩提を趣向し、衆生に功徳を回施し、無為涅槃の趣求にふりむけるとする。
世親は「礼拝、讃歎、観察、作願、回向」と五念門を説き、往生浄土のための行の中、自ら修めた諸功徳をすべての衆生に回向して、ともに浄土に往生して仏となることを重要な項目としてあげている。
廻向者、謂、以一切施等諸行、願得阿耨多羅三貌三菩提果。〔『瑜伽師地論』75、T30・712a〕
「廻向」の初出
われわれが、「廻向」という言葉の原語「パリナーマ」「パリナーマナー」の動詞形や過去分詞の形に出会うのも、現存サンスクリット文献では、この『八千頌般若経』が最初であ る。
- 「アーナンダよ、お前はどう思うか。もし布施が一切智者性に廻向されていないならば、それは布施波羅蜜の名を得るであろうか。」
- アーナンダ長老はいった。「そうではありません、世尊よ。」
- 世尊はいった。「(一切智者性に)廻向されていない持戒、廻向されていない忍辱、廻向されていない精進、廻向されていない禅定についてお前はどう思うか。アーナンダよ、お前はどう思うか。一切智に廻向されていない智慧は、般若波羅蜜という名を得るであろうか。」
- アーナンダはいった。「そうではありません、世尊よ。」
- 世尊はいった。「アーナンダよ、お前はどう思うか。諸善根を一切智者性に廻向するという仕方で廻向する、その智慧は不思議ではないか。」
- アーナンダはいった。「そのとおりです、世尊よ。」
ここで「諸善根」というのは、布施ないし智慧の六徳目である。善根は、それが善行であり果報を生む根でもあるから善根であって、善業というに等しい。六徳目は世俗の善行であるが、それが一切智者性という仏陀の智慧、空の智慧に廻向され、転換されたときには、勝義的な完成・完全性をもつものとなる、というのである。布施も、精進も、その他の徳行も、すべて、空の働き、仏陀の働きに変わるといっているのである。ここにおいて、廻向の思想は完成されるにいたった、といってよい。
十回向
『華厳経』「十行品」では、十波羅蜜(六波羅蜜に、方便・願・力・智の四波羅蜜を加えたもの)が、最も詳しく説かれている。次の十廻向の第一には、まず諸々の波羅蜜を行じ、無量の善根を修することが述べられ、次に
- 平等観に入りて怨親無きが故に常に愛眼を以て諸の衆生を視る。
とあってさらに、
- 我れ当に彼の三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の中に於て、悉く代りて苦を受け、解脱を得せしむべし
- 我れ当に一々の悪道に於て、未来劫を尽くして諸の衆生に代りて無量の苦を受くべし
などといわれる。
ここには、はっきり「代受苦」の考え方が出ている。そもそも廻向というのが、自分が労苦して修行した功徳を他者にさし廻してしまうことであり、まさに代受苦の実践であろう。この修行なしに、菩薩道は完成しない。
この代受苦が、仏の側から凡夫の解脱に対して廻向される、ということであり、続く十回向への橋渡しとなっている。
他力回向
回向すべき善行を実行しえないという自己反省によって、法を仰ぎ、法の力を受け取ろうとする。そこで回向を他力とみて他力回向として、仏の側から衆生に仏の功徳が回向されるのが、浄土真宗でいう他力回向である。親鸞は、この回向について往相回向、還相回向の二種を説く。
往相回向とは、自分の善行功徳を他のものにめぐらして、他のものの功徳として、ともに浄土に往生しようとの願いをもととして説かれる。親鸞の場合、浄土への往生のための善行はすべて阿弥陀仏の力によるのであって、阿弥陀仏がたてて完成した万徳具備の名号のはたらきによるとして、名号を回向されるという。
次に還相回向とは「還来穢国」といわれ、浄土へ往生したものを、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いを言う。この利他のはたらきも、阿弥陀仏の本願他力の回向による。具体的には、庄松という妙好人が「私が捨てた念仏を喜んで拾う者がいる」と言うように、称名の声を聞いた時に、浄土からこの我々に働きかけているすがたと感じて、それに応えて称名をするすがたを言う。
往相還相がともに阿弥陀如来の本願のままに衆生に回施され、衆生もこの阿弥陀如来と同じ悟りを開くことができるとする。これを他力回向と説く。
回向文
回向文といって「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」といい また「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」という。これは、仏事の最後に唱えられ、仏事を行った功徳を自らだけのものにすることなく、広く有縁の人々に回向するために読誦される。この意味で、寺や各家々で行われる仏事は、亡くなった人のためではなく、縁ある者すべてに向けての回向とする。
後者の回向文は、しばしば浄土系諸宗派で用ゐられるが、浄土真宗では「此功徳」を阿弥陀仏の功徳とする。
慧光
prajñā-ābhā (S)
智慧を光に喩えて慧光という。三慧のうちの聞所成慧と思所成慧をいう。
- 菩薩の慧光は一切の有情の煩悩を息減す。
言慧光者、謂、即加行聞思成慧。 〔瑜伽師地論83、T30-761b〕