おうそうえこう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
移動先: 案内検索

往相回向

浄土真宗の重要な教義で、還相回向に対する言葉である。中国の曇鸞の主著『論註 』のなかに、

自分の行じた善行功徳をもって他の人に及ぼし、自分と他人と一緒に弥陀の浄土に往生できるようにと願うこと

が往相回向であるとする。
親鸞は、往相回向も還相回向もともに、阿弥陀仏によって回向された他力によるものであるとして、自分の力をたのんで善行功徳を行じる自力を排し、すべてが阿弥陀仏の本願力によるものであるとした。

教行信証

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教・行・信・証あり。(教行信証 )とある。それぞれを、親鸞は次のように説明している。

それ真実の教を顕さば、すなはち『無量寿経 』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来本願を説きての宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。

他力

以上のように、凡夫が浄土に往生する相(すがた)を、教・行・信・証とで説明する。とは無量寿経に説かれる阿弥陀仏の発願の経緯と、その願そのものと、仏の智慧慈悲によってすべてが回向されていることを明かす。とは、凡夫が往生のために行う行ではなく、阿弥陀仏が行じ終わってその功徳を凡夫に回向するとする。も、凡夫が阿弥陀仏を信じるのではなく、本願の力によって信が凡夫に回向されるものであり、もまた阿弥陀仏によって仕上げられたものであり、それが回向されるとみるのである。
このように、教行信証すべてが阿弥陀仏によって仕上げられて、それが凡夫に回向されていると見ることから、他力回向といい、他力本願と言うのである。

往相・還相

 浄土教では極楽浄土への往相とそしてそこからの還相という廻向のかたちのなかで自利利他が説かれている。世親(4世紀頃)は『往生論』のなかで五念門(礼拝・讃歎・作願・観察・廻向)の第五に廻向門をあげ、この五念門のはじめの四門は入の功徳を成就し、第五門が出の功徳を成就するという。

菩薩は入の四種の門を以て自利の行成就す。応に知るべし、菩薩は出の第五門の廻向を以て利益他の行成就す

と述べている。これを受けて曇鸞(476-542)は『往生論註』のなかで廻向に往相・還相の二種を説き

往相は己が功徳をもって一切の衆生に廻施し、共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり。還相とはかの土に生じ已りて、奢摩他、毘婆舎那、方便力成就せることを得て、生死の稠林に廻入し、一切の衆生を教化して共に仏道に向わしむるなり

と述べている。そこでは自己の功徳を一切の衆生に廻施してともに往生を願うとあるように、往相にも自利の面だけではなく利他が考えられている。善導(613-681?)も『観経疏』散善義のなかで、阿弥陀仏の浄土に生まれ大慈悲をもって生死の穢土に還って衆生を教化することも廻向であると捉えている。
 偏依善導を標傍した日本浄土教の法然(1133-1212)は、善導を弥陀の化身と仰ぎ、その晩年には自らを勢至菩薩の応現であるとの自覚をもっていたようである。念仏者にとって重要な問題でもあるこの往相・還相の二廻向にさまざまな説のあることを聖〓(1351-1420)の『決疑紗直牒』巻9に伝えている。
 浄土真宗の親鸞(1173-1262)は往相・還相の二廻向の利益を阿弥陀如来の本願力によって廻向されたものと考えて他力廻向を強調した。二廻向を如来の本願力の動的なはたらきとする親鸞は、法然を阿弥陀如来が化して本師源空と示現したと見ている。また称名も不廻向であることを

真実信心の称名は弥陀廻向の法なれば、不廻向となづけてぞ、自力の称念きらはる

と述べている。真宗のこうした立場を蓮如(1415-1499)は

凡夫の方よりなさぬ廻向なるが故に、これをもて如来の廻向をば、行者のかたよりは不廻向とは申すなり

と言っている。