操作

「こん」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

()
()
4行目: 4行目:
 
 原語の漢訳語で、機能・能力などの意味。ある作用を起こす力をもったもののことであり、中国仏教では、[[ぞうじょう|増上]](すぐれていること)・[[のうしょう|能生]](生ぜしめる働きがあること)の義と解釈され、草木の根が幹や枝葉を養い生ぜしめるような働きをもったもの。感覚を起こさせる機能または器官として眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)を「[[ごこん|五根]]」といい、これに意根を加えて「[[ろっこん|六根]]」という。<br>
 
 原語の漢訳語で、機能・能力などの意味。ある作用を起こす力をもったもののことであり、中国仏教では、[[ぞうじょう|増上]](すぐれていること)・[[のうしょう|能生]](生ぜしめる働きがあること)の義と解釈され、草木の根が幹や枝葉を養い生ぜしめるような働きをもったもの。感覚を起こさせる機能または器官として眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)を「[[ごこん|五根]]」といい、これに意根を加えて「[[ろっこん|六根]]」という。<br>
 
 また[[しん|信]]・[[ごん|勤]]([[しょうじん|精進]])・[[ねん|念]]・[[じょう|定]]・[[え|慧]]の5つは煩悩を除いて「悟り」へ向かわせるのにすぐれた力があることから「[[ごこん|五根]]」または「[[ごりき|五力]]」という。
 
 また[[しん|信]]・[[ごん|勤]]([[しょうじん|精進]])・[[ねん|念]]・[[じょう|定]]・[[え|慧]]の5つは煩悩を除いて「悟り」へ向かわせるのにすぐれた力があることから「[[ごこん|五根]]」または「[[ごりき|五力]]」という。
 +
 +
 本来は「能力を有するもの」を意味する語であるとされる。ただ、特に、「ものごとを把捉する能力を有するもの」というニュアンスが強調され、一般には感官のことを指す。<br>
 +
 ふつう感官としては、視覚器官(眼)、味覚器官(舌)、嗅覚器官(鼻)、触覚器官(身、皮層)、聴覚器官(耳)の五根が数えられる。意(マナス)を、これらと同列にならぶ根とするかどうかについては、派によって見解が異なる。視覚器官はいろかたちを把捉し、味覚器官は味を把捉し、嗅覚器官は香りを把捉し、触覚器官は触を把捉し、聴覚器官は音声を把捉するとされる。そして、これらにそうした能力があるのは、視覚器官は火の元素からなり、味覚器官は水の元素からなり、嗅覚器官は地の元素からなり、触覚器官は風の元素からなり、聴覚器官は[[こくう|虚空]]からなるからだとされる。一般に、いろかたちは火の固有の属性、味は水の固有の属性、香りは地の固有の属性、触は風の固有の属性、音声は虚空の固有の属性であるとされるところからの素朴な発想が、こうした考えの根底に横たわっているのである。<br>
 +
 サーンキヤ派によれば、視覚器官をはじめとする五根は五知根(jñānendriya)と呼ばれる。これに対して、発声器官、手、足、排泄器官、生殖器官の五根が立てられ、五作根(karmendriya)と呼ばれる。これ以外に、意が別個の根とされるので、この派が立てる根は11を数える。<br>
 +
 ヴェーダーンタ派では、ヴェーダ文献の記述にもとづき、感官としての根は体にあいた穴のようなもので、内官(antaḥkaraṇa、意)の変容態(vṛtti)は、そこを通って外界に出、対象を把捉するのだと解釈される。ヴェーダーンタ派などを除き、ふつう直接知は、感官と対象が接触し、それが意を介してアートマン(自我)に伝えられて成立すると考えられている。しかし、視覚器官と嗅覚器官は、対象と接触しなくても直接知をもたらすように見える。そこで、ニヤーヤ派、ヴァイシェーシカ派、ミーマーンサー派などでは、次のように考えられた。<br>
 +
 まず視覚器官についてであるが、これは火の元素からなるので、微弱ながらも光線を発し、それが対象と接触する。また、嗅覚器官については、対象から発散される微粒子が嗅覚器官に達し、そこで接触が起こるのであると。<br>
 +
 仏教では、感官としての五根、六根のほか、悟りにいたるためにすぐれた能力をもつということから、[[しん|信]](信仰)・[[ごん|勤]](努力)・[[ねん|念]](思念)・[[じょう|定]]([[ぜんじょう|禅定]])・慧([[ちえ|智慧]])の5徳目を五根として説き、37菩提分法のなかに含めている。また、以上の11根に男・女・命の三根、喜・苦・楽・憂・捨の五受根、未知当知・已知・具知の三無漏根を加えた22根も説かれるが、その場合は単なる機能による分類であるにすぎない。
  
 
===中国一般の根===
 
===中国一般の根===
 
 人の生まれつきの性・持ち前は、善悪の行為を引きおこす力があるので「[[こんじょう|根性]]」また「[[きこん|機根]]」「[[こんき|根機]]」などといい、教えを聞き修行し悟ることについての能力・素質をさす。男女それぞれの性的特徴をもたらす力、また男女の性器を男根・女根というのも、その生み出す力からである。なお、中国の古典においては、特に『[[ろんし|老子]]』において万物を生み出す根源として「根」の語が用いられ、「根に帰る」思想が説かれる。
 
 人の生まれつきの性・持ち前は、善悪の行為を引きおこす力があるので「[[こんじょう|根性]]」また「[[きこん|機根]]」「[[こんき|根機]]」などといい、教えを聞き修行し悟ることについての能力・素質をさす。男女それぞれの性的特徴をもたらす力、また男女の性器を男根・女根というのも、その生み出す力からである。なお、中国の古典においては、特に『[[ろんし|老子]]』において万物を生み出す根源として「根」の語が用いられ、「根に帰る」思想が説かれる。

2018年6月19日 (火) 15:32時点における版

indriya (S)

 原語の漢訳語で、機能・能力などの意味。ある作用を起こす力をもったもののことであり、中国仏教では、増上(すぐれていること)・能生(生ぜしめる働きがあること)の義と解釈され、草木の根が幹や枝葉を養い生ぜしめるような働きをもったもの。感覚を起こさせる機能または器官として眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)を「五根」といい、これに意根を加えて「六根」という。
 また(精進)・の5つは煩悩を除いて「悟り」へ向かわせるのにすぐれた力があることから「五根」または「五力」という。

 本来は「能力を有するもの」を意味する語であるとされる。ただ、特に、「ものごとを把捉する能力を有するもの」というニュアンスが強調され、一般には感官のことを指す。
 ふつう感官としては、視覚器官(眼)、味覚器官(舌)、嗅覚器官(鼻)、触覚器官(身、皮層)、聴覚器官(耳)の五根が数えられる。意(マナス)を、これらと同列にならぶ根とするかどうかについては、派によって見解が異なる。視覚器官はいろかたちを把捉し、味覚器官は味を把捉し、嗅覚器官は香りを把捉し、触覚器官は触を把捉し、聴覚器官は音声を把捉するとされる。そして、これらにそうした能力があるのは、視覚器官は火の元素からなり、味覚器官は水の元素からなり、嗅覚器官は地の元素からなり、触覚器官は風の元素からなり、聴覚器官は虚空からなるからだとされる。一般に、いろかたちは火の固有の属性、味は水の固有の属性、香りは地の固有の属性、触は風の固有の属性、音声は虚空の固有の属性であるとされるところからの素朴な発想が、こうした考えの根底に横たわっているのである。
 サーンキヤ派によれば、視覚器官をはじめとする五根は五知根(jñānendriya)と呼ばれる。これに対して、発声器官、手、足、排泄器官、生殖器官の五根が立てられ、五作根(karmendriya)と呼ばれる。これ以外に、意が別個の根とされるので、この派が立てる根は11を数える。
 ヴェーダーンタ派では、ヴェーダ文献の記述にもとづき、感官としての根は体にあいた穴のようなもので、内官(antaḥkaraṇa、意)の変容態(vṛtti)は、そこを通って外界に出、対象を把捉するのだと解釈される。ヴェーダーンタ派などを除き、ふつう直接知は、感官と対象が接触し、それが意を介してアートマン(自我)に伝えられて成立すると考えられている。しかし、視覚器官と嗅覚器官は、対象と接触しなくても直接知をもたらすように見える。そこで、ニヤーヤ派、ヴァイシェーシカ派、ミーマーンサー派などでは、次のように考えられた。
 まず視覚器官についてであるが、これは火の元素からなるので、微弱ながらも光線を発し、それが対象と接触する。また、嗅覚器官については、対象から発散される微粒子が嗅覚器官に達し、そこで接触が起こるのであると。
 仏教では、感官としての五根、六根のほか、悟りにいたるためにすぐれた能力をもつということから、(信仰)・(努力)・(思念)・(禅定)・慧(智慧)の5徳目を五根として説き、37菩提分法のなかに含めている。また、以上の11根に男・女・命の三根、喜・苦・楽・憂・捨の五受根、未知当知・已知・具知の三無漏根を加えた22根も説かれるが、その場合は単なる機能による分類であるにすぎない。

中国一般の根

 人の生まれつきの性・持ち前は、善悪の行為を引きおこす力があるので「根性」また「機根」「根機」などといい、教えを聞き修行し悟ることについての能力・素質をさす。男女それぞれの性的特徴をもたらす力、また男女の性器を男根・女根というのも、その生み出す力からである。なお、中国の古典においては、特に『老子』において万物を生み出す根源として「根」の語が用いられ、「根に帰る」思想が説かれる。