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:貌(かたち)に好醜あり。是れによりて慢を長じ愛を育す。剃髪し壊色(ゑじき)の衣を著するは慢を伏し愛をやむるのすがたなり 〔''慈雲短篇法語''〕 | :貌(かたち)に好醜あり。是れによりて慢を長じ愛を育す。剃髪し壊色(ゑじき)の衣を著するは慢を伏し愛をやむるのすがたなり 〔''慈雲短篇法語''〕 | ||
− | 愛は[[じゅうにいんねん|十二因縁]]に組み入れられ、第八支となる。前の[[じゅ|受]](感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。 | + | 愛は[[じゅうにいんねん|十二因縁]]に組み入れられ、第八支となる。前の[[じゅ|受]](感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。<br> |
十二支縁起の一契機としての'''愛'''。十二支縁起のなかの第8番目の契機。『倶舎論』の三世両重の因果説によれば、妙なる生活道具を貪り、性的欲望を生じるが、いまだ広範囲に追求することがない段階をいう。 | 十二支縁起の一契機としての'''愛'''。十二支縁起のなかの第8番目の契機。『倶舎論』の三世両重の因果説によれば、妙なる生活道具を貪り、性的欲望を生じるが、いまだ広範囲に追求することがない段階をいう。 | ||
2018年7月23日 (月) 11:44時点における版
愛
tṛṣṇā तृष्णा、kāma काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह (S)
anunaya
苦しむ生きものを救済することを願って、かれらを愛し慈しむ菩薩の愛。
- 諸の有情を愛す
tṛṣṇā तृष्णा
人間の最も根源的な欲望。tṛṣṇāの原義は「渇き」であり、人がのどが渇いているときには、水を飲まないではいられないような衝動があり、それにたとえられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在している。そこでtṛṣṇāを「愛」とか「渇愛」と訳し、ときには「恩愛」とも訳す。
喉の渇いた人が水を欲しがるような激しい欲望、盲目的な衝動、満足するまでやまない激しい欲望、妄執をいう。
広義には煩悩を意味し、狭義には貪欲と同じ意味である。
- 貌(かたち)に好醜あり。是れによりて慢を長じ愛を育す。剃髪し壊色(ゑじき)の衣を著するは慢を伏し愛をやむるのすがたなり 〔慈雲短篇法語〕
愛は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。
十二支縁起の一契機としての愛。十二支縁起のなかの第8番目の契機。『倶舎論』の三世両重の因果説によれば、妙なる生活道具を貪り、性的欲望を生じるが、いまだ広範囲に追求することがない段階をいう。
- 貧妙資具婬愛現行、未広追求、此位名愛。〔『倶舎』9,T29-48c〕
kāma काम
kāmaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。
仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶待視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を涅槃そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。密教が空海によって日本に導入されたときは、この傾向は払拭されたが、平安末期に立川流が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。性愛を表すのに、愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。
preman प्रेमन्、sneha स्नेह
preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。
子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもってすべての人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。
一切衆生に対する愛情の純粋化・理想化されたものを慈悲という。それは仏に成就しているが、一般の人々にも多かれ少なかれ実践できる。
〔大毘婆沙論巻29〕には、汚れた愛と汚れのない愛との二種があり、前者は貪、後者は信であるという。
〔大智度論巻72〕には、欲愛・法愛の二愛を説いている。欲愛とは妻子などを愛念する貪欲であり、法愛とは一切衆生を慈愛する慈悲心である。