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: 煩惱即菩提ハ。智者ノ前ノ事ナリ。'''愚昧ノ境界ニハ非ズ'''。故 般舟讃云。貪瞋即是輪迴業。煩惱豈是無生因。驗此貪瞋火燒苦。不如走入彌陀國<sub>已上</sub>〔光雲明秀の『愚要鈔』、T83. 537a〕 | : 煩惱即菩提ハ。智者ノ前ノ事ナリ。'''愚昧ノ境界ニハ非ズ'''。故 般舟讃云。貪瞋即是輪迴業。煩惱豈是無生因。驗此貪瞋火燒苦。不如走入彌陀國<sub>已上</sub>〔光雲明秀の『愚要鈔』、T83. 537a〕 | ||
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: 仏教徒によれば、涅槃とはよく言われるような意識の断滅でも、精神作用を一時的あるいは永遠に抑制することでもなく、自我存在という考え、およびその誤った考えから起こってくるすべての欲望を断滅することなのである。しかしこれは教えのネガティヴな面を言っているのであって、'''ポジティヴな面から言うなら、それはあらゆる衆生に対する普遍的愛すなわち悲(karuṇā)'''なのである。 〔大乗仏教概論 鈴木大拙〕 | : 仏教徒によれば、涅槃とはよく言われるような意識の断滅でも、精神作用を一時的あるいは永遠に抑制することでもなく、自我存在という考え、およびその誤った考えから起こってくるすべての欲望を断滅することなのである。しかしこれは教えのネガティヴな面を言っているのであって、'''ポジティヴな面から言うなら、それはあらゆる衆生に対する普遍的愛すなわち悲(karuṇā)'''なのである。 〔大乗仏教概論 鈴木大拙〕 | ||
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:若し煩悩即菩提なるを知らば是れを無作の道諦と為す。〔[[しきょうぎ|四教儀]]6、T46.0761b〕 | :若し煩悩即菩提なるを知らば是れを無作の道諦と為す。〔[[しきょうぎ|四教儀]]6、T46.0761b〕 | ||
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これは'''貪等の煩悩はその体が法性'''であるから、法性を離れて外に別に諸法がないのであるから、'''煩悩の性に菩提の名を立て'''て、煩悩即ち菩提と説くことを明らかにしたのである。 | これは'''貪等の煩悩はその体が法性'''であるから、法性を離れて外に別に諸法がないのであるから、'''煩悩の性に菩提の名を立て'''て、煩悩即ち菩提と説くことを明らかにしたのである。 | ||
:菩薩は、欲は是れ分別性なるが故に欲の有にあらざるを見る。欲の無相性は即ち是れ欲法の真如なり。菩薩は欲の有にあらざるを知り、此の真如に入ることを得るが故に欲に於いて出利を得。〔真諦訳、摂大乗論釈14、T31.0260a〕 | :菩薩は、欲は是れ分別性なるが故に欲の有にあらざるを見る。欲の無相性は即ち是れ欲法の真如なり。菩薩は欲の有にあらざるを知り、此の真如に入ることを得るが故に欲に於いて出利を得。〔真諦訳、摂大乗論釈14、T31.0260a〕 |
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煩悩即菩提
煩悩と悟りとは、ともに空であり、本来は不二・相即していること。煩悩がそのまま悟りの縁となること。
大乗仏教の用語で、積極的にはすべては真実不変の真如の現れであり、悟りの実現をさまたげる煩悩も真如の現れにほかならず、それを離れて別に悟りはないことをいう。
生死即涅槃とともに、大乗仏教の究極を表す句として、有名となった。
- 法性を離れて外に諸法あることなきにより、是の故に是の如く説く、煩悩即菩提なりと 〔大乗荘厳経論(随修品)、T31.0622b〕
- 煩惱即菩提ハ。智者ノ前ノ事ナリ。愚昧ノ境界ニハ非ズ。故 般舟讃云。貪瞋即是輪迴業。煩惱豈是無生因。驗此貪瞋火燒苦。不如走入彌陀國已上〔光雲明秀の『愚要鈔』、T83. 537a〕
- 仏教徒によれば、涅槃とはよく言われるような意識の断滅でも、精神作用を一時的あるいは永遠に抑制することでもなく、自我存在という考え、およびその誤った考えから起こってくるすべての欲望を断滅することなのである。しかしこれは教えのネガティヴな面を言っているのであって、ポジティヴな面から言うなら、それはあらゆる衆生に対する普遍的愛すなわち悲(karuṇā)なのである。 〔大乗仏教概論 鈴木大拙〕
- 淫欲は即ち是れ道なり、恚と癡も亦是の如し。此の如き三事の中に無量の諸仏の道あり。若し人あり淫怒癡及び道を分別せば、是の人は仏を去ること遠し〔大智度論6、T25.0107c〕
- 法性を離れて外に別に諸法あることなきに由り、是の故に是の如く説く、煩悩即菩提なりと。釈して曰く、経中に無明と菩提と同一なりと説くが如き、此れ無明の法性に菩提の名を施設するを謂うなり。〔大乗荘厳経論6随修品、T31.0622b〕
とある。また、智顗は
- 若し煩悩即菩提なるを知らば是れを無作の道諦と為す。〔四教儀6、T46.0761b〕
と言っている。
これは貪等の煩悩はその体が法性であるから、法性を離れて外に別に諸法がないのであるから、煩悩の性に菩提の名を立てて、煩悩即ち菩提と説くことを明らかにしたのである。
- 菩薩は、欲は是れ分別性なるが故に欲の有にあらざるを見る。欲の無相性は即ち是れ欲法の真如なり。菩薩は欲の有にあらざるを知り、此の真如に入ることを得るが故に欲に於いて出利を得。〔真諦訳、摂大乗論釈14、T31.0260a〕
と言い、法蔵は
- 若し惑性の空を見れば是れ智にして惑にあらず。是れ則ち惑ありと見るの智は、此の智は亦須らく断ずべきも、諸惑の性、空なれば、此の惑は須らく断ずべからず。経に云わく、若し人ありて成仏せんと欲せば貪欲を壊すること勿れと。亦云わく、煩悩即菩提等と。此れ並びに智が惑性を見、相尽き断なきに就きて方に実断と為すなり。〔入楞伽心玄義、T39.0433a〕
と言っている。これは煩悩は分別性であるから、その体が有るのではなく、すなわち惑性に空を見るとき、惑を断ずべきものがなく、すなわち真如に入ることができるのであるから、煩悩即菩提と説くのだという意味である。