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: 慧命を奪い、道法功徳善本を壊(やぶ)る、この故に名づけて魔と為す。 | : 慧命を奪い、道法功徳善本を壊(やぶ)る、この故に名づけて魔と為す。 | ||
とある。魔羅をときに悪魔ともいうが、仏教の「魔」はキリスト教など他宗教の悪魔とは著しく性格を異にする。仏教の「魔」に相当するものは[[ばらもんきょう|婆羅門教]]にも見られないが、同教典籍に登場するヤマ(冥府の主,閻魔)、カーマ、イーシヴァラ([[じざいてん|自在天]])、ナムチなどの諸神格とおそらくなんらかの連関をもつものであろう。 | とある。魔羅をときに悪魔ともいうが、仏教の「魔」はキリスト教など他宗教の悪魔とは著しく性格を異にする。仏教の「魔」に相当するものは[[ばらもんきょう|婆羅門教]]にも見られないが、同教典籍に登場するヤマ(冥府の主,閻魔)、カーマ、イーシヴァラ([[じざいてん|自在天]])、ナムチなどの諸神格とおそらくなんらかの連関をもつものであろう。 | ||
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+ | 仏教の「魔」のもつ多様で複雑な性格を一言で表すことは難しい。しかし、人の生命を奪い、仏道修行などもろもろの善事に妨害をなすというのがおそらくはその根本性格であろう。 | ||
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+ | 諸経論の中で「魔」は種々の方式で分類されている。たとえば『大智度論』(5)などでは、[[うん|蘊]]魔・[[ぼんのう|煩悩]]魔・死魔・天子魔という4種の魔に言及されている。すなわち「蘊魔」と「煩悩魔」とは、人間を構成する[[ごうん|五蘊]]および人間存在にまつわる百八煩悩をそれぞれ、結局は人命を奪うものたる「魔」と見なしたものであり、「死魔」とは死そのものである。この3種の魔が内面の魔であるとすれば、第4の「天子魔」は外的世界を支配する一種の神としての「魔」であり、「[[たけじざいてん|他化自在天]]子魔」と名付けられる。<br> | ||
+ | この他化自在天は欲界の最上部たる第六天であり、魔界というよりはむしろもろもろの快楽をもたらす善美を尽くした楽園である。ここに住む天子魔は弓を携えた愛神カーマのような姿をとるとされ、もろもろの[[けんぞく|眷属]]とともに、人間の善事を妨げ、聖者の法を憎み、さまざまの手だてをもって[[しゅっせけん|出世間]](出世)を志す修行者を誘惑し堕落せしめるものと考えられている。 | ||
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+ | この世界を[[よくかい|欲界]]・[[しきかい|色界]]・[[むしきかい|無色界]]の[[さんがい|三界]]に分けた場合、人間と神々の大部分を包摂する欲界は、結局のところ「魔」の支配に帰することになる。<br> | ||
+ | このように「魔」とは、仏教思想の体系において枢要な地位を占めるものであるから、真に仏道修行の完成をめざす修行者は、必ず「魔」の妨害と誘惑とを完全に克服することに努めねばならない。それゆえにこそ仏伝においても、釈尊の[[じょうどう|成道]]・開教・[[ねはん|涅槃]]にあたって、「魔」はつねに中心的な役割を果たしているのである。 |
2024年3月18日 (月) 09:30時点における最新版
魔
「魔」とは,死あるいは殺を意味するサンスクリット語「māra मार」に相当する音写。「魔羅」ともいわれる。
『大智度論』(5)に
- 慧命を奪い、道法功徳善本を壊(やぶ)る、この故に名づけて魔と為す。
とある。魔羅をときに悪魔ともいうが、仏教の「魔」はキリスト教など他宗教の悪魔とは著しく性格を異にする。仏教の「魔」に相当するものは婆羅門教にも見られないが、同教典籍に登場するヤマ(冥府の主,閻魔)、カーマ、イーシヴァラ(自在天)、ナムチなどの諸神格とおそらくなんらかの連関をもつものであろう。
四魔
仏教の「魔」のもつ多様で複雑な性格を一言で表すことは難しい。しかし、人の生命を奪い、仏道修行などもろもろの善事に妨害をなすというのがおそらくはその根本性格であろう。
諸経論の中で「魔」は種々の方式で分類されている。たとえば『大智度論』(5)などでは、蘊魔・煩悩魔・死魔・天子魔という4種の魔に言及されている。すなわち「蘊魔」と「煩悩魔」とは、人間を構成する五蘊および人間存在にまつわる百八煩悩をそれぞれ、結局は人命を奪うものたる「魔」と見なしたものであり、「死魔」とは死そのものである。この3種の魔が内面の魔であるとすれば、第4の「天子魔」は外的世界を支配する一種の神としての「魔」であり、「他化自在天子魔」と名付けられる。
この他化自在天は欲界の最上部たる第六天であり、魔界というよりはむしろもろもろの快楽をもたらす善美を尽くした楽園である。ここに住む天子魔は弓を携えた愛神カーマのような姿をとるとされ、もろもろの眷属とともに、人間の善事を妨げ、聖者の法を憎み、さまざまの手だてをもって出世間(出世)を志す修行者を誘惑し堕落せしめるものと考えられている。
欲界を支配する魔
この世界を欲界・色界・無色界の三界に分けた場合、人間と神々の大部分を包摂する欲界は、結局のところ「魔」の支配に帰することになる。
このように「魔」とは、仏教思想の体系において枢要な地位を占めるものであるから、真に仏道修行の完成をめざす修行者は、必ず「魔」の妨害と誘惑とを完全に克服することに努めねばならない。それゆえにこそ仏伝においても、釈尊の成道・開教・涅槃にあたって、「魔」はつねに中心的な役割を果たしているのである。