いじゅく
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
異熟
旧訳の「果報」
過去の善悪によって得た果報の総名。果が因の性質とは異なって成熟することを言う。
善業によって楽果を感じ、悪業によって苦果を感じるように、楽果は善性ではなく無記性である。これによって、善性と無記性とは類を異にしているので、善性の業に対して異類と言うべきである。苦果を悪業に対する場合も、苦果は悪性ではなく無記性であるから、因と果との性質を異にしている。これによって異熟果と言う。
また、因と果とが必ず時間を隔て、異時に於いて熟するから、異熟と言う。
- 異類しこうして熟す。是れ異熟の義なり。 〔倶舎論 6〕
- 異熟というは、あるいは異時に熟す。あるいは変異して熟す。あるいは異類として熟す。 〔成唯識論述記 2末〕
異熟因
vipāka-hetu, vipāka-ākhyaḥ・・・・hetuḥ (S)
六因の一つで、善悪の二業をいう。
道徳的な意味での原因。先になした善あるいは悪の行為(業)によって、後に好ましい、あるいは好ましからぬ境遇を得るという因果関係において、原因(業)を異熟因とよび、結果を異熟果とよぶ。この場合、因は善または悪であるが、果は無記(中性)である。〔倶舎論6、瑜伽師地論36,T30-484b〕
異熟果
五果の一つで、六因の内の異熟因からの二報をいう。
異熟生
大乗では、異熟と異熟生を別け、阿頼耶識を異熟とし、眼耳鼻舌身意の六識を異熟生とする。これは、六識の異熟は、阿頼耶識の種子‥‥すなわち異熟‥‥より生ずる義があるからである。
異熟識
阿頼耶識の異名。
異熟障
自然の果報として仏法を修行することができない境界をいう。