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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2024年12月10日 (火) 15:11時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (中論での二諦)

二諦

 世俗諦勝義諦。これに2種の用法がある。

1.世俗諦とは、世俗としての真理、言葉が通用する世界の真理をいい、勝義諦とは、最高の真理、言葉が通用しない世界の真理をいう。前者は現象的存在(有為)としての真理、後者は非現象的存在(無為)としての真理、すなわち涅槃あるいは真如をいう。
 真諦俗諦。真諦とは、真理上の実義、もしくは佛菩薩の観ずる所の実義のこと。俗諦とは、俗事上の実義、もしくは凡夫の知った実義の事である。

2.現象的存在、すなわち有為に関して用いられる世俗諦と勝義諦。この場合は、言葉で語られた「もの」の存在性の度合いをいう語として用いられる。
 たとえば身と心からなる生命的存在に対して仮に「有情・命者・生者」などの名称で呼ばれたもの、あるいは「我(われ)が眼根が色をみる」というときの「」というものなどは世俗諦であり、有情ないし我は「無常性であり苦性であり無我であり縁生性である」と説かれるときの無常性、ないし縁生性は勝義諦である、という。
 あるいは世俗諦としては自らがあることを作し、その結果を自らが受けるといい、そこに作者や受者を立てるが、勝義諦としてはのような作者も受者も存在しなく、そこには因果があるだけであるという。

 このように2つの真理によって真理(=)を説くところに仏教の真理観の特徴がある。

 如実了知世俗諦義、謂、五明処。如実了知勝義諦義、謂、於七真如。〔『解深密経』4、T16-706c〕
 云何為諦。謂、世俗諦及勝義諦。云何世俗諦。謂、即於彼諦所依処、仮想安立我或有情乃至命者及生者等。又自称言我眼見色乃至我意知法。又起言説、謂、如是名乃至如是寿量辺際。広説如前、当知。此中唯有仮想、唯仮自称、唯仮言説所有性相作用差別、名世俗諦。云何勝義諦。謂、即於彼諦所依処、有無常性。広説乃至有縁生性。〔『瑜伽師地論』92、T30-824c〕
 厳密にいうならば、仏陀がことばをもって説くべからざるものを、あえて説き始めたその瞬間から、仏教は堕落退廃への萌芽が萌していた、言うことができる。

中論での二諦

 二諦(2種の真理)説である。これはいわば「永遠の相の下」にある真理・認識と、「時間の相の下」にある真理・認識とがからみあうだけではなくして、さらにそれを超えて出て行って、龍樹の進む途を明らかに示すものだからである。以下の二諦説の解釈は、その内容について、またそれをどのようにとらえるか、独自に考えてみた。
 よく知られているように、『中論」において二諦について述べているのは、つぎの三偈だけである。

 諸仏依二諦 為衆生説法 一以世俗諦 二第一義諦
 若人不能知 分別於二諦 則於深仏法 不知真実義
 若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃
 dve satye samupāśritya buddhānāṃ dharmadeśanā / 〔492-4〕
 lokasaṃvṛtisatyaṃ ca satyaṃ ca paramārthataḥ // 〔492-5〕
 ye 'nayorna vijānanti vibhāgaṃ satyayordvayoḥ /  〔494-4〕
 te tattvaṃ na vijānanti gambhīraṃ bhddhaśāsane // 〔494-5〕
 vyavahāramanāśritya paramārtho na deśyate /    〔494-12〕
 paramārthamanāgamya nirvāṇaṃ nādhigamyate //   〔494-13〕
 諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。世俗諦と勝義諦とである。〔二四8〕
 これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。〔二四9〕
 ことばによる説明(=世俗諦)によらなくては、勝義(諦)は説かれ得ない。勝義(諦)にもとづかなくては、ニルヴァーナ(涅槃)はさとられない。〔二四10〕

 「世俗諦」は、「世間一般においてことばをもって説明される仏教の真理」というべきであろう。なお「勝義諦」についても、たんに「最高の真実としての真理」というより、「最高の真実としての仏教の真理」というべきものであろう。

 『中論』は上の3つの二諦説をとりあげた第24章の直後に「涅槃品」を、またその前の第22章に「如来品」を置いている。それぞれから一偈ずつ見てみる。

 涅槃之実際 及与世間際 如是二際者 無毫釐差別  〔T30.36a〕
 nirvāṇasya ca yā koṭiḥ koṭiḥ saṃsaraṇasya ca / 〔535-9〕
 na tayorantaraṃ kiṃ citsusūkṣmamapi vidyate // 〔535-10〕
 ニルヴァーナの辺際であるものは、輪廻世間の辺際である。両者の間には、どのような微細の区別も存在しない。〔二五20〕


 如来過戯論 而人生戯論 戯論破慧眼 是皆不見仏〔T30.30c〕
 prapañcayanti ye buddhaṃ prapañcātitamavyayam / 〔448-3〕
 te prapañcahatāḥ sarva na paśyanti tathāgataṃ // 〔448-4〕
 如来の自性(実体)であるところのものは、この世間の自性である。如来は無自性である。この世間もまた無自性である。〔二二16〕

 このように、哲学的認識論と宗教的認識論とが、たえず即応しながら果たされる。永遠 の相の下にわたくしたちはあり、そのわたくしたちが時間の相の下に現実に動いている。それらは別のものではなく、わたくしたちは時間の相と永遠の相とに触れている。以上の螺旋の上を進みつつあるわたくしたちが、二つの相を自覚することをあらためて龍樹の空の理論と呼ぶべきであろう。

大毘婆沙論などの二諦

 とくに『大毘婆沙論』(巻77)や『倶舎論』(第13)などに説かれている説明、世俗諦=世間一般の常識による真理、勝義諦(第一義諦)=仏教の最高の真理、とする解釈を捨てるべきではないか。
 なんとなれば、もしもこれを採用していれば、それはそのまま認識論に反映されて、世俗諦は哲学的認識論に、勝義諦は宗教的認識論に分類することが可能となるであろうからです。

大品般若経での二諦説

 『大品般若経』にかなり多くの二諦説への言及がある。それらは大別して2種類に分けられ、一つは最初の「嘱累品第六十六」以前のものと、他はそのあとのものである。前者には「諦」の語はあらわれず、「世間法」と「第一義」というだけであるが、後者は多く「諦」をつけ、たとえつけていなくても、その「諦」の自覚が明らかにうかがわれる。