しょちしょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
所知障
jñeya-āvaraṇa (skt)
知られるべきもの、即、究極の真理(真如)を知ることを妨げる障害。煩悩障とともに説かれて、二つをまとめて二障と言う。
煩悩障と対比すれば、煩悩障が「我への執着(我執)によって生じ、それによって生死に流転するのに対して、所知障は「もの」(法)への執着(法執)によって生じ、それによって菩提を得ることができない。
たとえば、「自己の身体」と思ってそれに貪欲を起こす場合、この貪欲の対象を分析すると、一つは「自己」であり、今一つは「身体」である。この中、「自己」というものが実体としてあると執着して起こす貪欲が煩悩障であり、「身体」があると思って起こす執着が所知障である。すなわち、ある一つの貪欲‥‥広くいえば煩悩の一つ‥‥は、煩悩障と所知障との両面を同時にそなえている。このことを
煩悩障は法の用に迷い、所知障は法の体に迷う
という。
唯識では、心のありようを、迷いからさとりに変革することを目的とする。具体的には、識を転じて智を得る(転識得智)ことである。
この中、識の働きは二分法的思考(分別)であり、そのような認識のありようになる原因が煩悩障と所知障である。煩悩障を断ずることによって煩悩が生じなくなり、所知障を断じることによって、すべての知るべきもの(一切の所知)を智ることになる。
云何が菩提なるや。謂く略説すれば二断と二智、是れを菩提と名づく。二断とは、一には煩悩障の断、二には所知障の断なり。二智とは、一には、煩悩障が断ずるが故に畢竟離垢にして一切の煩悩が随縛しない智である。二には、所知障が断ずるが故に一切の所知に於いて無礙にして無障なる智である。 〔瑜伽論38 T30-498c〕
有為・無為の諸法と真如に関して、正しい智を生ぜしめないように障害となるものが所知障である。
解脱には関係がないから、声聞は所知障を断じない。しかし無知は衆生教化には障害となるから、菩薩は所知障をも断じて、一切智者となる。