ごんげ
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
権化
avatāra (S):otāra (P)
梵語「アヴァターラ」は「アヴァトリ」(avatṛ)という動詞から作られた名詞であり、「現われること」「降下すること」などを意味し、「応現」「化現」などといわれる。
この「アヴァターラ」という考えは、超人である神が、地上のいろいろなものの姿に変化して、それらのものの願望をかなえ、救ってやるものだという考え方に立って説かれてきたものである。キリスト教の「化肉」というのも、このような考え方の一種としてみられるか。また、SNSなどで別の人形を作ったり、SFなどで別の体に変身したりするのをアヴァターと呼ぶのも、同根であろう。
仏教における起源は詳しくはわからないが、インドの土壌の中で、早くから、このような考え方があらわれたようである。たとえば、釈尊について、その前生の物語である本生譚の中で、釈尊は鹿王に化現したり、隊商の長に生まれたり、また、太子に生まれたりして種々行をはげんだとするものは、みな、この「アヴァターラ」の考えによるものである。また、大乗諸経で仏の説法の場所を天界におくのもこのためであろう。ことに、兜率下生に示される八相成道なども、この化現思想の一種として注意される。
さらに、この考え方は仏身観の展開と呼応して、法身の応化という立場で考えられるようになる。この一種として観世音菩薩の信仰を生み出し、チベットではダライ・ラマこそ観世音菩薩の化現であり、この土地は観音の浄土であるとさえ主張する人々がある。
このような思想は、日本に入っては聖徳太子は観音の化身、良弁僧正は弥勒菩薩、行基菩薩は文殊菩薩の化身であると主張されたり、法然聖人は勢至菩薩、親鸞聖人は阿弥陀の化身などという主張となったのであろう。しかも、このような思想は、やがて日本では本地垂迹説と進んでゆく訳である。そこでは、本地である大日如来は天照大神と垂迹し、観世音菩薩は八幡大神と垂迹したなどといわれてくるようになる。これが、やが権現という考えを生み出し、愛宕権現、熱田権現、石清水権現、春日権現、熊野権現、日光権現、箱根権現などと有名な権現が説かれ出したのである。
ところで、このアヴァターラは、インドでは第5世紀のグプタ期の宗教的再生への大きな影響を与えた。もちろん、思想そのものは仏教以前にさかのぼるものであり、パニーニの時代に信仰せられていたものである。また、パータンジャリ(B.C. 2c.)は、クリシュナを神のアヴァターラであって、神性をもった人間でなく、神そのものであるとした。
『バガバット・ギーター』でクリシュナは「宗教がおとろえて、悪者がはびこり、これを滅さねばならない時には、いくたびも生まれ出るであろう」といっている。ここにも、ゑられるように世の中が乱れてくる時、人々の要求に応じていろいろの姿をとって此の世界に現われるというのである。その現われ方について、ことに有名なものがヴィシュヌ神の十身の化現である。次に、これをあげておこう。
- .魚形化現 matyāvatāra
- .亀形化現 kūrmāvatāra
- .野猪化現 varāhāvatāra
- .人獅子化現 marasiṃhāva-
- .侏儒化現 vāmanāva-
- .大銊羅摩化現 paraśurāva-
- .羅摩旃陀羅化現 rāmachandāva-
- .仏陀化現 bauddhāva-
- .カルキ化現 kalkiava-
などである。仏陀釈尊も明らかにアヴァターラとして考えられている。しかも、それは6世紀までに既にそのように思われていたようである。このことは『マツィヤ・プラーナ』にはヒンドゥーの正統な神として、それはヴィシュヌ神のアヴァターラであるとされているし、『バーガヴァタ・プラーナ」でも、仏陀はヴィシュヌの1アヴァターラとして述べられている。
このようなアヴァターラという考え方が、現代のわれわれにとってどのような意味をもつかについては、簡単には結論できないとしても、宗教的な伝統において、常にこのような権化・化現・化身などの考えがあるということは、人間自身の本当の落ち着きと安らかさが、このような歴史的な伝統精神に基礎づけられていると思わされる。人間にとって横への拡がりとしての社会的位置づけの自覚も大切であるが、歴史的な縦の伝統が人間の精神的安定にとって、また大切であることを知るべきであろう。