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まなしき

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

しりょうしんから転送)

末那識

mano-vijñāna (S)
 末那識は仏教に説く8識(眼耳鼻舌身などの前5識と第6意識・第7末那識・第8阿頼耶識)中の第7番に数えられるものである。梵語「マノービジュニャーナ」のマノー (mano)は「マナス」〈manas)で、一般に「意」と訳される。「ビジュニャーナ」は「識」である。したがって「意識」と訳して差支えない。
 しかし、もし、これを意識と訳出するならば、第6番目の「意識」と区別がつかない。そこで第7の意識を原音をのこして末那識としたといわれる。もちろん、原語では第六識は「ビジュニャーナ」〈vijñāna〉のみであるから、「識」である。

意識と末那識

 第七識に原音を残しているのは、第六意識と区別し、混乱をさけるためのみでなく、末那ということによって、その識の特徴を明らかにする利点があるとする。すなわち末那とは思量(おもいはかる)の義で、それに恒審〈ごうしん〉の2義があるといい、さらに第六の意識は「意の識」と依主釈によるもので「第七の末那、すなわち意によるの識」の意味であるとする。これに対して第七は意即識、すなわち、第七識は自らを意と名づけている意味でいわれると説明されている。いわゆる持業釈〈じごっしゃく〉による解釈である。
 第六も第七も共に思量であるのに、どうして第七だけを思量というのかということについて、それは恒審の二義をもっているのが第七識であるからで、第六識は恒審の二義を具足していないからである。すなわち、第六識は物事について詳しく考え判断し推理する働きをもっているから審思量の意味を備えている。
 しかし、第六識は極悶絶〈ごくもんぜつ〉、極睡眠〈ごくずいみん〉などのように、失心した時や深い眠りの中では断絶してしまうから恒思量の義を欠く。それに対して第七識は恒と審との2義を備えた思量識である。かくて、この第七識のみを正しく末那〈manas〉とよぶことができるという。

末那識のはたらき

 この第七識とは具体的にどのような思量を行うものであるのか。まず、この第七識のよりどころは第八阿頼耶識である。すなわち、間断〈けんだん〉なく無始時来相続している第八阿頼耶識、生命の根本たる根本識によるものである。この点、第七識も、また無始時来相続しているものである。
 この根本識に依止〈えじ〉して活動する第七識は、何をその対象とし、その対象に対して如何に働くのかといえば、それは自らの依止たる第八阿頼耶識の見分を対象とし、しかも、それを実我と誤って考え、それにとらわれるのである。この点で、第七識は我執の根本となる識であるといわれる。
 前にいうように第八阿頼耶識は無始時来相続して一切の世界を顕現する根本となるので、この阿頼耶識の活動をみて、顕現の基体となる阿頼耶識の主体の側を実の我であると思量し確執する。かくして、第七識こそは虚妄分別の根本となるもので、我他彼此の対立分別の源となる。

末那識を説く理由

 このような我執の意識として殊更に末那識の如きものを説くのは、仏教という立場に立つからである。
 一般的な立場からいえば、第六意識までで心理学的には説明がつくし、もし記憶の相続という問題の解決には六識では十分に説明がつかないなら、せいぜいその根本的なものとして根本識を考えれば説明はつく。さらに今日のように潜在意識というような考え方でもよいであろう。
 ところが、仏教は人間界の苦悩を自我を執じ、他を差別する分別にあるとみる。自他の区別があることが苦の原因ではない。自他の区別に執着して、区別されたものを差別視するところに苦の原因があるというべきである。
 無常であること自体は世間実相である。したがって、世の中の無常であることが苦の原因であるといってみたところで、それを苦にしなければ別にどうでもない。一切は無常であって別に問題はない。ただ人間は常に変化してゆく存在に対して、なんらかの固定観念をつくりあげ、その固定観念にとらわれるから無常を苦にせざるを得ないのである。
 金持ちだ貧乏だといっても、金そのものが悪いのでもなんでもない。貧乏が苦しいというのは、その金にとらわれるからである。金持ちが貧乏したとき、もと貧乏であったこと、本来無一物であることが十分に了解されていれば、たいして貧乏は苦にならないはずである。しかし、失ったものに対して、それを所有していた時の執着でとらまえるから、貧乏が苦しいのである。
 苦こそは人間のとらわれから起こるというのが仏教の立場である。
 無我である現実の中で、自らに実我のとらわれをもつから、そこに孤独の苦が起こるのであり、本来無我と了達するならば、そこには苦悩はなく、すべてが自由自在である筈である。
 しかし、人間は自らを実我と考えなければ――たとえ、とらわれであるとしっていても――生きてゆけない。人間存在そのものは苦であると説かれるのは、このためである。仏教は、このような我執退治して、真実の自由を生きることを目標とするのである。したがって、仏教にとって、なぜ、このような我執があるのか。また、我執はどのような構造の中にあるのかを明らかにすることは大切な問題である。
 いま、この我執の構造を明らかにして、末那識が説かれ、我執は、意識が根本識たる阿頼耶識によって、しかも、この阿頼耶識の見分を実我であると誤認するところから起こるといい、その誤りを犯すものが末那識であると説明する。このように末那識は阿頼耶識に依止し、しかも阿頼耶識の見分を所縁とするものであるから、その働きは非常に微細である。

実我の執着

 すなわち、実我の執着とは、単に、これは私である。これは私の物であるなどと対象化された私や、私の外にある存在に対するような粗野なもの、表面的なものではなく、自らの内面にあり、むしろ粗野に意識されないような内に働くものである。人間の意識の奥深くに潜んでいる微細なる働きであるというべきである。
 元来、第八識の行相〈ぎょうそう〉(はたらくすがた)は極めて微細なものであるから、それが第七識によって執着されているかどうか容易に知りえないのである。我執を対流することの困難なのは、このためである。

我執

 この第七末那識の我執の内容は、それではどういうことであるのかについて、この第七識は我癡〈がち〉我愛〈があい〉我慢〈がまん〉我見〈がけん〉の4種の煩悩と相応するという。

  1. 我癡とは無明をいう。無我の理に迷うことである。
  2. 我愛とは執着されている自我について貪着することをいう。
  3. 我慢とは執着されている我について、それを高しとすることである。
  4. 我見とは妄りに自我を執する悪見をいう。

 これらの4煩悩と相応するということは、第七識の働きが真理に明らかでないために、妄りに物の区別を差別視し執着する人間の心情であることを示しているといえる。このように第七識が常に自らにおいて働いているところに、人間は自分を他の一切のものから区別し、自己を形成するのである。

阿陀那識

 このような第七番目の識として、仏教内にはこれを阿陀那識と名づける地論宗がある。
 そこでは第八識を真識として真如と同一であるといい、この真識が動じ変化して分別的に働くために働く力が第七の阿陀那識であるという。
 たとえば『起信論』にいわゆる根本無明が、これであるという。それは分別の根本として妄染の識であるという。しかし、法相宗では末那識を我執の意識、第八阿頼那識は妄識とする。
 以上のように、この末那識を立てるところに仏教の心識論が成道という立場をふまえていることをしると共に、このような末那識に対しての人間の内省が、今日の人間性の考察についても大きな意味をもつと思われるのである。