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じょうどろんちゅう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

無量寿経優婆提舎願生偈註

2巻、曇鸞北魏:元徽4(476)-興和4(542))述
訓:Mu-ryo^-ju-kyo^-u-pa-dai-sha-gwan-shou-ge-chu^
大正40 p.826 No.1819、卍続 1-71-2
略称:往生論註浄土論註論註


 本書は曇鸞大師が、天親菩薩の『無量寿経優婆提舎願生偈』(俗称『浄土論』)に対して註釈を加えた論書である。『浄土論』が偈文と長行でできているので、『論註』ではこれを上下巻に分けて、文を総説分、長行を解義分として註釈を加えている。

総説分

 総説分の最初に、曇鸞は龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』を引いて、大乗菩薩道を明確にしている。

つつしみて龍樹菩薩の『十住毘婆沙』(易行品・意)を案ずるに、いはく、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり」と。「難行道」とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。        〔論註 p.47〕

 注意したいのは、龍樹は難行道という言葉を使っていないが、曇鸞は明確に「難行道」と言っている。大乗菩薩道において阿毘跋致(avinivartaniiya)すなわち不退転の位を得ることがいかに難しいのかを、先に示している。そこで、

「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。〔〃 pp.47-48〕

と『十住毘婆沙論』の易行道をまとめて、龍樹の説く「信方便=易行」を「信仏の因縁」としている。つまり信仏の因縁が易行であるとして、初地の菩薩に不退転地を得させるのは、仏願力であることを示している。『十住毘婆沙論』では、諸仏の名を聞き、信じ、そして名を称えることが易行の内容である。菩薩にとって、仏に対する信心・称名は不退転地を得る因であるが、信心にせよ称名にせよ、すべてが仏願力が修行者への手だてとして働く力用に他ならない。龍樹が、易行を「信心を方便とする」と説いているのは、方便(upaaya)が真実の力用のことであり、「upaaya」が「近づいていくこと」という原意であるから、真実がさまざまな方法をめぐらすことを言っている。

「無量寿」はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆のなかにおいて無量寿仏の荘厳功徳を説きたまへり。すなはち仏(阿弥陀仏)の名号をもつて経の体となす。    〔〃 p.48〕

 ここで、曇鸞は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3経を『無量寿経』の1経にまとめ、この体を「南無阿弥陀仏」の名号であるとした。それはこの経に説かれている浄土の荘厳である依正2報が、本願力によって成就したもの(願心荘厳)であり、往生浄土のために称念する名号も本願力によって成就したものであるから、名号こそが経の体であるとする。のちに親鸞聖人が

ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。」    〔教巻 p.135〕

と説いたのも、ここからきている。
 総説分は『浄土論』の「願生偈」24行全体を、礼拝・讃歎・作願・観察・廻向の五念門に配当している。

一心願生‥‥世尊我一心
礼拝門 ‥‥      帰命
讃歎門 ‥‥        尽十方 無碍光如来
作願門 ‥‥                  願生安楽国
成上起下‥‥我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 與仏教相応
観察門 ‥‥観彼世界相(第3偈)  ‥‥    示仏法如仏(第23偈)
回向門 ‥‥我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国
「世尊我一心」といふは、「世尊」は釈迦如来なり、「我」と申すは世親菩薩のわが身とのたまへるなり、「一心」といふは教主世尊の御ことのりをふたごころなく疑なしとなり、すなはちこれまことの信心なり。    〔尊号銘文 p.651〕

 このように親鸞聖人は「一心」を真実信心とし、如来の一心(真実心)がわれわれの一心(信心)となっていると、『教行信証』信巻で解釈している。
 さて、願生偈の大半は観察門でできている。何を観察するのかといえば、天親は3厳29種の浄土荘厳を観察するのだと述べている。仏国土荘厳17種、仏荘厳8種、菩薩荘厳4種である。曇鸞は「法蔵菩薩の願心荘厳のものである」とする。其々の荘厳を、上巻では因願に約して解釈しており、下巻では果上に約して解釈している。
 このように、大乗菩薩道の実現が観察門を中心とする五念門の行によって達成され、般若波羅蜜の完成が最も重要視されている。しかも、浄土荘厳を観察するには仏智の働きが必要であるが、じつは浄土荘厳そのものが仏智の顕れである。そして、観察することによって仏智を得る身となるから、仏智を得るには仏智によらなければならない。つまり、観察門はこのことを説明しようとしているのである。
 総説分の最後に回向門があり、

回向」とは、おのが功徳を回してあまねく衆生に施して、ともに阿弥陀如来を見たてまつり、安楽国に生ぜんとなり。    〔論註 p.92〕

とあるが、これは親鸞聖人が

「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。    〔一多証文 p.691〕

と解釈しているように、こころにうかべ見ることであり、信知のことである。

八番問答

 総説分はこの後、①いかなる衆生が往生するのか、②五逆と謗法は往生できるか、③五逆罪がなくても謗法があれば往生できないのか、④謗法の罪とは何か、⑤五逆罪より謗法の罪はなぜ重いのか、⑥業道経と観経の同異を問う、⑦一念を問う、⑧念の多少を知りうるか、の八番問答がある。  このうち、⑦において観察よりも讃歎について曇鸞は別の書に

而して百年之惡を以て重と為し、十念念佛を疑いて輕となさば、安樂(国)に往生し正定聚に入ることを得ずとは、是事、然らず。    〔略論安楽浄土義 T47,p.2c〕

と論じている。のちに、善導が「念」とは「声」であるとして、「念声是一」を打ち出す。

解義分

 曇鸞は、解義分を10節に分けて解釈している。

Ⅰ 願偈大意

 願生偈の大意は、安楽浄土の依報(仏国土)と正報(仏と菩薩)を観察して、安楽浄土に生まれたいと願う信心、すなわち一心を起こすことを明らかにする。

Ⅱ 起観生信

 願偈大意の趣旨を実践行で示す。つまり、浄土に生まれて阿弥陀仏を見たてまつるために、五念門(礼拝門・讃歎門・作願門・観察門・回向門)を修することを明かす。

Ⅲ 観察体相

 五念門のうち、第4の観察門を詳説する。すなわち依報(仏国土荘厳17種)と正報(仏荘厳8種・菩薩荘厳4種)の3厳29種の荘厳を挙げる。曇鸞は、それらの荘厳がすべて阿弥陀仏の本願力による荘厳であり、真実・清浄のさとりの世界の現われに他ならないと述べる。

Ⅳ 浄入願心

 3厳29種の清浄荘厳を方便として、如来の願心に摂入せしめる、という意味。3厳29種の荘厳は阿弥陀仏の願心に基づくもので、われわれを真実の世界に入らしめるためのものである。
 そこで、自利・利他の完成を目指して菩薩行を実践する者は、広(29種荘厳)と略(一法句=清浄句=真実智慧・無為法身)の相入の道理を修めることであるとする。

ここまでは、五念門の前四を修めて自利の功徳を明かす。次いで、回向門を修め利他行を明かす。

Ⅴ 善巧摂化

 廻向の意義を明かす。善巧摂化とは、五念門を修めた功徳をもって衆生を摂取し教化するために、めぐらし施す巧みな利他行をいう。

Ⅵ 障菩提門

 廻向門を修するために、善巧摂化する利他心が大切であるから、さとりを障げる心を斥けて、さとりに適う心を具備すべきである。
 ここでは、前者のさとりを障げる心を斥けるために、智慧門によって貪著自身心を、慈悲門によって無安衆生心を、方便門によって恭敬自身心を遠離する。

Ⅶ 順菩提門

 障菩提門を修めることによって自ずから得られるもので、智慧門によって無染清浄心、慈悲門によって安清浄心、方便門によって楽清浄心が得られるとする。

智慧門‥‥不2自楽1        無染清浄心  自利
慈悲門‥‥抜2一切衆生苦      安清浄心   利他
方便門‥‥遠B離供2養恭3敬自身1A  楽清浄心   利他

Ⅷ 名義摂対

 智慧慈悲方便の3門は、般若(智慧)と方便におさまり、貪著自身心と無安衆生心と恭敬自身心の三つの遠離心は無障心におさまり、無染清浄心と安清浄心と楽清浄心の三清浄心は、妙楽勝真心に帰する。これが、菩薩の廻向心の極まりである。

Ⅸ 願事成就

 名義摂対に明かされた般若(智慧)心、方便心、無障心、妙楽勝真心の四心が、妙楽勝真心の一心におさまり、廻向利他の行が全うされたから、これによって五念門行が成就し終わり、往生浄土の願いの果たされたことを述べる。

Ⅹ 利行満足

 五念門の修行によって、自利利他円満の成仏道である大乗菩薩道が完成することを、五念門行のもたらす功徳の面から明かす。因の五念門に対して、果の五功徳門を挙げる。

①近門 浄土に入るすがたで、正定聚の位につくこと。
②大会衆門 浄土に生まれた者は如来の大会衆の仲間に入る。
③宅門 如来の大会衆の仲間に入れば、禅定生活に入る。
④屋門 宅門に入れば、種々の真理観を修める空住生活に入り、法味を楽しむ。
⑤園林遊戯地門 自利行が完成すると衆生を利他教化する働きに従事する。生死の園林に入って衆生を救うことを自らの楽しみとするから。