操作

「い」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
()
1行目: 1行目:
 
=意=
 
=意=
manas (skt.)
+
<big>manas</big> ()
  
 
 [[せついっさいうぶ|説一切有部]]などでは、[[しん|心]]・意・[[しき|識]]を同義異名と考えている。そのうち「意」は、思量する働きなど、心の考える方面を表す。<br>
 
 [[せついっさいうぶ|説一切有部]]などでは、[[しん|心]]・意・[[しき|識]]を同義異名と考えている。そのうち「意」は、思量する働きなど、心の考える方面を表す。<br>
6行目: 6行目:
  
 
 [[ゆいしき|唯識]]派では、心・意・識はおのおの異なる心に対応していると考える。そこで心は[[あらやしき|阿頼耶識]]、意は[[まなしき|末那識]]、識は[[ろくしき|六識]]をさす。<br>
 
 [[ゆいしき|唯識]]派では、心・意・識はおのおの異なる心に対応していると考える。そこで心は[[あらやしき|阿頼耶識]]、意は[[まなしき|末那識]]、識は[[ろくしき|六識]]をさす。<br>
 末那識はmano-naama-vijJaana(マナスと名付ける識)といい、阿頼耶識を対象に自我を思量するものである。この末那識には、常に我愛・[[がけん|我見]]・[[がまん|我慢]]・我癡(がち)の四つの[[ぼんのう|煩悩]]が付随している。事物を認識・識別する六識のうちで、[[いしき|意識]](第六識)はこの末那識をよりどころ(意根)とし、また眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識が働くときは必ずこの意識が同時に働いているので、六識は煩悩に汚されてしまうことになる。このように、心の汚れのもととなる末那識は、〈染汚意(ぜんまい)〉(kliSTa-manas)とも呼ばれる。
+
 末那識はmano-nāma-vijñāna(マナスと名付ける識)といい、阿頼耶識を対象に自我を思量するものである。この末那識には、常に我愛・[[がけん|我見]]・[[がまん|我慢]]・我癡(がち)の四つの[[ぼんのう|煩悩]]が付随している。事物を認識・識別する六識のうちで、[[いしき|意識]](第六識)はこの末那識をよりどころ(意根)とし、また眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識が働くときは必ずこの意識が同時に働いているので、六識は煩悩に汚されてしまうことになる。このように、心の汚れのもととなる末那識は、〈染汚意(ぜんまい)〉(kliṣṭa-manas)とも呼ばれる。
  
 
===無間滅の意===
 
===無間滅の意===

2020年7月10日 (金) 11:49時点における版

manas (S)

 説一切有部などでは、・意・を同義異名と考えている。そのうち「意」は、思量する働きなど、心の考える方面を表す。
 今日の知・情・意の「意」は、思の心所(意志作用)が相当する。

 唯識派では、心・意・識はおのおの異なる心に対応していると考える。そこで心は阿頼耶識、意は末那識、識は六識をさす。
 末那識はmano-nāma-vijñāna(マナスと名付ける識)といい、阿頼耶識を対象に自我を思量するものである。この末那識には、常に我愛・我見我慢・我癡(がち)の四つの煩悩が付随している。事物を認識・識別する六識のうちで、意識(第六識)はこの末那識をよりどころ(意根)とし、また眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識が働くときは必ずこの意識が同時に働いているので、六識は煩悩に汚されてしまうことになる。このように、心の汚れのもととなる末那識は、〈染汚意(ぜんまい)〉(kliṣṭa-manas)とも呼ばれる。

無間滅の意

 意根は元来、刹那刹那に識が生滅している場合に、ある刹那に識が滅して、次の刹那に識が生起したとき、前に滅した識のことをいう。これを「無間滅(むけんめつ)の意」といい、後の識に道を開き、導き手・拠り所となることから「開導依(かいどうえ)」ともいう。この意は、識の生起を助けているわけであり、等無間縁というとして語られるものである。

身口意の意

 身口意三業といわれる場合の「意」とは、心(こころ)の思いとか意志など、一般的な意味での心の働き(意業)をさす。