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− | * | + | * クチャから天山山脈を越えて北路に出、西[[とっけつ|突厥]]の統葉護可汗に会う。 |
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− | * この寺に5年とどまり、シーラバドラ( | + | * この寺に5年とどまり、シーラバドラ([[かいけん|戒賢]]、Śīlabhadra)について[[ゆがしじろん|瑜伽師地論]]をはじめとする[[むじゃく|無著]]・[[せしん|世親]]系の瑜伽[[ゆいしき|唯識]]の教学をきわめた。 |
* その後、インド各地に求法と仏跡巡礼の旅を続け、多数の仏典を収集して帰路につく。 | * その後、インド各地に求法と仏跡巡礼の旅を続け、多数の仏典を収集して帰路につく。 | ||
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門下の[[きき|窺基]]、[[えんじき|円測]]、普光らにより法相宗、倶舎宗が興った。<br> | 門下の[[きき|窺基]]、[[えんじき|円測]]、普光らにより法相宗、倶舎宗が興った。<br> | ||
− | + | 弟子の弁機に編述させた旅行記『[[だいとうさいいきき|大唐西域記]]』12巻は、彼の伝記である『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』10巻ともども、正確無比な記述によって、7世紀の西域、インドを知る貴重な文献である。西安南郊の興教寺に墓所がある。 | |
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+ | :小説『[[さいゆうき|西遊記]]』のテーマとなったことが知られている。 | ||
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+ | 妙法の力に依りて、賢聖常に現じ、天神身に副ひたり 〔[[ほっけげんき|法華験記]](中68)〕 | ||
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+ | できあいの形で目の前にあること。また、動詞的にも用いる。 | ||
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+ | 禅で、目のまえに現前している存在すべてが、そのまま悟りのすがたを現しているという意を表す。[[どうげん|道元]]は、自己の説く仏法の真髄を示すのに現成の語を使った。あえて仏となることをはからず(不図作仏(ふとさぶつ))、ひたすら坐りぬく(只管打坐(しかんたざ))その禅は、修行の上で現成を直証することを目途とした。<br> | ||
+ | 75巻本『[[しょうぼうげんぞう|正法眼蔵]]』の第1巻は「現成公案」であり、現成は『正法眼蔵』全巻をつらぬく根本思想である。 | ||
− | + | 寒堂一夜、衣を思ふの意、羅綺千重、暗に現成す 〔[[きょううんしゅう|狂雲集]]〕 |
2021年10月14日 (木) 11:29時点における最新版
玄奘
(げんじょう、Xuan zang、602年-664年)
- 「玄弉」の文字を使うのが正しいが、通常コンピュータ上では上記のように表記されている。
中国、唐代初期の仏教僧。インドへの求法僧で、一般には三蔵法師として知られる。
俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)誠氏県に生まれた。
- 13歳のときに出家し、兄の長捷のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学ぶ。
- 618年 隋・唐王朝交代期に、兄とともに長安に入るが、兵乱のため講義がなかったので、蜀(四川省)の空慧寺に入った。
- 622年(武徳5年)に具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧弁といった学僧から倶舎論や摂大乗論の教義を受けた。しかし、多くの疑義を解決することができず、本場の学者から瑜伽師地論を学びたいと、インド留学を決意した。当時、唐の法律では国外への旅行が禁止されていたので、僧数名とともに願書を出したが却下された。
- 629年(貞観3年)国禁を犯して求法の途についた。
- 高昌国王からの懇請で、伊吾から高昌に向かい、国王から旅費などの寄進をうけた。
- クチャから天山山脈を越えて北路に出、西突厥の統葉護可汗に会う。
- アフガニスタンから北インドに入り、中インドのマガダ国ナーランダ寺に至った。
- この寺に5年とどまり、シーラバドラ(戒賢、Śīlabhadra)について瑜伽師地論をはじめとする無著・世親系の瑜伽唯識の教学をきわめた。
- その後、インド各地に求法と仏跡巡礼の旅を続け、多数の仏典を収集して帰路につく。
- 645年 ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原を越え、ホータンを通り、17年ぶりの長安に帰った。
インドから請来したのは、仏舎利150粒、仏像8体、経典520夾、657部で、弘福寺に安置された。皇帝太宗は勅を下してただちに訳経を開始させ、はじめは弘福寺で、のちには大慈恩寺で訳経に専念した。
20年間に訳出した大乗小乗の経論は、『大般若波羅蜜多経』600巻をはじめ、『瑜伽師地論』『倶舎論』など75部、1,235巻に達した。その訳は逐語訳を特徴とし、新訳と呼ばれ、クマーラジーバ(鳩摩羅什)らの旧訳と区別される。
門下の窺基、円測、普光らにより法相宗、倶舎宗が興った。
弟子の弁機に編述させた旅行記『大唐西域記』12巻は、彼の伝記である『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』10巻ともども、正確無比な記述によって、7世紀の西域、インドを知る貴重な文献である。西安南郊の興教寺に墓所がある。
- 小説『西遊記』のテーマとなったことが知られている。
賢聖
『けんじょう』とも読む。サンスクリット語ārya(形容詞としては高貴な、名詞としては聖人の意)の漢訳語として用いられることが多い。この場合、「賢聖」は一語であり、「賢」と「聖」との2語ではない。
賢と聖
漢語としての「賢聖」は、同じく智徳の卓越した(人)の意を表すが、時に「賢者」と「聖人」とを意味する。さらに仏教の教理学では、「七賢七聖」「三賢十聖」のように修行の階梯に「賢」と「聖」とが用いられることがある。
妙法の力に依りて、賢聖常に現じ、天神身に副ひたり 〔法華験記(中68)〕
失(とが)を求むれば、三賢十聖も失の誹(そし)るべきあり 〔霊異記(下33)〕
現成
saṃmukhī-bhūta-lābha (S)
現行と成就のこと。はたらきの現われることと身に具えていること。
できあいの形で目の前にあること。また、動詞的にも用いる。
禅
禅で、目のまえに現前している存在すべてが、そのまま悟りのすがたを現しているという意を表す。道元は、自己の説く仏法の真髄を示すのに現成の語を使った。あえて仏となることをはからず(不図作仏(ふとさぶつ))、ひたすら坐りぬく(只管打坐(しかんたざ))その禅は、修行の上で現成を直証することを目途とした。
75巻本『正法眼蔵』の第1巻は「現成公案」であり、現成は『正法眼蔵』全巻をつらぬく根本思想である。
寒堂一夜、衣を思ふの意、羅綺千重、暗に現成す 〔狂雲集〕