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初め[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]の[[せついっさいうぶ|説一切有部]](sarvaasti-vaadin सर्वास्तिवादिन्(skt))を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の'''無着'''から[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、[[ゆがぎょうゆいしきがくは|瑜伽行唯識学派]]に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた。 | 初め[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]の[[せついっさいうぶ|説一切有部]](sarvaasti-vaadin सर्वास्तिवादिन्(skt))を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の'''無着'''から[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、[[ゆがぎょうゆいしきがくは|瑜伽行唯識学派]]に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた。 | ||
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2009年6月22日 (月) 02:33時点における版
世親
vasubandhu वसुबन्धु(skt))(4c-5c)、「天親」(旧訳)
400-480年ごろ(or 320-400年ごろ)、現在のパキスタン、ペシャワールの人で、無着(むじゃく、asaNga असण्ग(skt))の弟。
初め部派仏教の説一切有部(sarvaasti-vaadin सर्वास्तिवादिन्(skt))を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無着から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識学派に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた。
著作
- 倶舎論 説一切有部の教義を体系化した論書で、極微(ごくみ)説、特殊相対性原理の祖形にも論及している。
- 唯識二十論
- 唯識三十頌 後に多くの論師によって注釈書が作られ、唯識の基本的論書となる。
- 大乗成業論
- 大乗五薀論
- 大乗百法明門論
- 仏性論
- 浄土論 後に曇鸞によって『浄土論註』が書かれ、浄土教もっとも重要な論書とされる。
これ以外に中辺分別論、大乗荘厳経論、摂大乗論などの注釈書も残っている。
像
興福寺世親菩薩蔵[1]