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− | + | モノの一定不変であって、他と区分できる一分が所依する根本のものを'''体'''という。これに対して、能依の区分できるものを'''相'''という。この'''体相'''について性相(しょうぞう)2宗で区別がある。<br> | |
− | [[ほっそうしゅう|法相宗]]では、'''能依の相'''の外に、'''所依の体'''があるとする。草木の外に大地があるようなものだという。<br> | + | [[ほっそうしゅう|法相宗]]では、'''能依の相'''の外に、'''所依の体'''があるとする。草木の外に大地があるようなものだという。<br> |
− | [[けごんしゅう|華厳宗]]では、ただ'''能依の相'''そのものを'''所依の体'''とする。<br>たとえば人間で言うならば、'''法相宗'''では四肢五官は相であり、この外に同分の[[あらやしき|阿頼耶識]]があって、これが所依の体となる。'''華厳宗'''の場合は、四肢五官と同分の阿頼耶識を包摂したものを体として、他に体があるとはしない。<br> | + | [[けごんしゅう|華厳宗]]では、ただ'''能依の相'''そのものを'''所依の体'''とする。<br>たとえば人間で言うならば、'''法相宗'''では四肢五官は相であり、この外に同分の[[あらやしき|阿頼耶識]]があって、これが所依の体となる。'''華厳宗'''の場合は、四肢五官と同分の阿頼耶識を包摂したものを体として、他に体があるとはしない。<br> |
− | [[えんじょうじっしょう|円成実性]]と[[えたきしょう|依他起性]]との関係もこのようなものである。法相では依他起のすべての他に円成実の真理があるとし、華厳では依他起の万有の相を該通するものが、即、円成実の真体であるとする。 | + | [[えんじょうじっしょう|円成実性]]と[[えたきしょう|依他起性]]との関係もこのようなものである。法相では依他起のすべての他に円成実の真理があるとし、華厳では依他起の万有の相を該通するものが、即、円成実の真体であるとする。 |
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2016年11月25日 (金) 22:52時点における版
体
たい、dhātu धातु(S)
一般に「ものがら」と言い、はたらき(用)の本体と考えれば分かりやすい。もしくは、「用」は体に従属するものであって、花と香りの関係であるとする。
モノの一定不変であって、他と区分できる一分が所依する根本のものを体という。これに対して、能依の区分できるものを相という。この体相について性相(しょうぞう)2宗で区別がある。
法相宗では、能依の相の外に、所依の体があるとする。草木の外に大地があるようなものだという。
華厳宗では、ただ能依の相そのものを所依の体とする。
たとえば人間で言うならば、法相宗では四肢五官は相であり、この外に同分の阿頼耶識があって、これが所依の体となる。華厳宗の場合は、四肢五官と同分の阿頼耶識を包摂したものを体として、他に体があるとはしない。
円成実性と依他起性との関係もこのようなものである。法相では依他起のすべての他に円成実の真理があるとし、華厳では依他起の万有の相を該通するものが、即、円成実の真体であるとする。
- なを、体には名がつくが、用には、名がつかないことに注意すべきである。
体
kaaya काय (sanskrit)
身体の体。
体
体とは「通」の意味である。理に通達をすることを「体」といい、「体信」「体達」「体会」などという。
諦
真理のことをいう。
सत्य
satya
真理、真実。唯一無二の一諦、真俗二諦、空・仮・中の三諦。苦・集・滅・道の四諦、四諦を細分した七諦・十諦・十六諦がある。
तत्त्व
tattva
真理、原理。インド哲学のニヤーヤ(正理(しょうり)学派)では十六諦、サーンキヤ(数論(すろん))では二十五諦に基づいて、苦を脱した至上の幸福すなわち解脱を説く。