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+ | '''根'''の意味について、古来「堅固にして抜くべからず」と説明されて、根は堅固不抜の意味を示すとする。すなわち、身口意の三[[ごう|業]]に行われる善法は、必ず善果を生ずるに間違いない。そこで、そのような因果必然という点で堅固にして抜くべからずと説明されるのである。したがって、善根とは、善因善果と因果の道理をたがわない善法であるということでいわれるのである。<br> | ||
+ | 次に、根は根本の意味であるとする。すなわち、いろいろの善を生ずる根本という意味である。梵語のクシャラ・ムーラの「ムーラ」〈muula〉は、正しくこの意味である。 | ||
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+ | それでは、何が[[ぜん|善]]〈kuzala〉を生ずる根本であるかというに、それを'''三善根'''と古来、いいならわしている。すなわち、無貪、無瞋、無痴の三である。これはいうまでもなく、[[とん|貪]]、[[しん|瞋]]、[[ち|痴]]の[[さんわく|三惑]]のないことをいう。そこで、無貪、無瞋、無痴が一切の善法の生ずる根本であるという意味を明らかにするためには貪、瞋、痴の意味を明らかにしておく必要がある。 | ||
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+ | '''貪'''〈とん〉とは一般には「むさぼり」の意味であるといわれようが、詳しくいうと虚妄である生存と、それをもたらす業や煩悩に執着して、虚妄を虚妄としらず、それを求める心をいうのである。したがって、この貪の作用は現前の身心に執着し、さらにそれによってかえって執着された身心を生ずるということで、迷いの生存の根本となる作用である。いま、この貪がないという無貪は、この点で虚妄の身心に執着せず、また虚妄の身心を生じないという。迷界否定の心である。したがって、無貪が善根であるということは、'''善法は迷界否定の心を根本'''としているということである。 | ||
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+ | 次に'''瞋'''〈しん〉とは、いかりの心であるが、それは苦をにくみ、苦を引き起す原因に憎しみを感ずることである。いねば、現実の生存への憎しみである。ところが自己の生存への憎しみが、やがて他人を自分の気儘次第に害う心となる。しかも、このように気儘に振舞いながら、常に不安を感じ、また、その不安のためにいよいよ悪を重ねるようになる。このような心作用が瞋であるから、いま無瞋とは自己の気儘のない落着いた心の状態であろう。このことは、善法の根本が不安動揺のない心であることを示している。 | ||
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+ | 次に'''痴'''とは、諸々の存在の[[りしょう|理性]]と[[じそう|事相]]とにくらく[[むち|無知]]であることで、それは存在の理と事にくわしくないことである。したがって、無痴とは存在の理事に詳しいことで、積極的には正しい智慧が得られていることでもあろう。 | ||
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+ | 以上のことからみて、仏教でいう善法は、まず正しい智慧によっているものである。したがって、そこでは[[こもう|虚妄]]を虚妄として知っているから、迷界虚妄に[[しゅうじゃく|執着]]することなく、常に平安の心によってものがなされる。すなわち現実の一切に執着しないのである。それは[[むが|無我]]の行といってもよいであろう。この点、仏道修行のうえでいう善根をつみ重ねるとか、[[とくほん|徳本]]を植えるとかいうことは、修行によって[[がしゅう|我執]]や[[ほうしょう|法執]]を捨てさることをいうのであり、ものへのとらわれを離れて、ものをありのままに正しく見ることのできる[[ちえ|智慧]]の完成にほかならないといわねばならない。 |
2010年9月5日 (日) 02:59時点における版
善根
kuzala-muula (skt.)「ぜんこん」とも読む。「善本」「徳本」とも漢訳される。
善根は、善を樹木の根にたとえたもの。根が花や果実をつけるもとであるのと同様に、善はよい果報をもたらすもとであることから作られた言葉である。
根
根の意味について、古来「堅固にして抜くべからず」と説明されて、根は堅固不抜の意味を示すとする。すなわち、身口意の三業に行われる善法は、必ず善果を生ずるに間違いない。そこで、そのような因果必然という点で堅固にして抜くべからずと説明されるのである。したがって、善根とは、善因善果と因果の道理をたがわない善法であるということでいわれるのである。
次に、根は根本の意味であるとする。すなわち、いろいろの善を生ずる根本という意味である。梵語のクシャラ・ムーラの「ムーラ」〈muula〉は、正しくこの意味である。
三善根
それでは、何が善〈kuzala〉を生ずる根本であるかというに、それを三善根と古来、いいならわしている。すなわち、無貪、無瞋、無痴の三である。これはいうまでもなく、貪、瞋、痴の三惑のないことをいう。そこで、無貪、無瞋、無痴が一切の善法の生ずる根本であるという意味を明らかにするためには貪、瞋、痴の意味を明らかにしておく必要がある。
貪
貪〈とん〉とは一般には「むさぼり」の意味であるといわれようが、詳しくいうと虚妄である生存と、それをもたらす業や煩悩に執着して、虚妄を虚妄としらず、それを求める心をいうのである。したがって、この貪の作用は現前の身心に執着し、さらにそれによってかえって執着された身心を生ずるということで、迷いの生存の根本となる作用である。いま、この貪がないという無貪は、この点で虚妄の身心に執着せず、また虚妄の身心を生じないという。迷界否定の心である。したがって、無貪が善根であるということは、善法は迷界否定の心を根本としているということである。
瞋
次に瞋〈しん〉とは、いかりの心であるが、それは苦をにくみ、苦を引き起す原因に憎しみを感ずることである。いねば、現実の生存への憎しみである。ところが自己の生存への憎しみが、やがて他人を自分の気儘次第に害う心となる。しかも、このように気儘に振舞いながら、常に不安を感じ、また、その不安のためにいよいよ悪を重ねるようになる。このような心作用が瞋であるから、いま無瞋とは自己の気儘のない落着いた心の状態であろう。このことは、善法の根本が不安動揺のない心であることを示している。
痴
次に痴とは、諸々の存在の理性と事相とにくらく無知であることで、それは存在の理と事にくわしくないことである。したがって、無痴とは存在の理事に詳しいことで、積極的には正しい智慧が得られていることでもあろう。
善法
以上のことからみて、仏教でいう善法は、まず正しい智慧によっているものである。したがって、そこでは虚妄を虚妄として知っているから、迷界虚妄に執着することなく、常に平安の心によってものがなされる。すなわち現実の一切に執着しないのである。それは無我の行といってもよいであろう。この点、仏道修行のうえでいう善根をつみ重ねるとか、徳本を植えるとかいうことは、修行によって我執や法執を捨てさることをいうのであり、ものへのとらわれを離れて、ものをありのままに正しく見ることのできる智慧の完成にほかならないといわねばならない。