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===漢字の罪=== | ===漢字の罪=== |
2011年6月21日 (火) 11:10時点における最新版
罪
仏教の典籍の場合、罪という文字は単独に用いられるとしても、その意味は一般に罪業〈ざいごう〉罪悪〈ざいあく〉罪障〈ざいしょう〉罪根〈ざいこん〉罪垢〈ざいく〉過罪〈かざい〉罪咎〈ざいぐ〉などと熟字される意味を示している。いま、この熟字化されたものの中の罪垢、罪過、罪障などは、罪を垢〈あか〉と考え、また罪を過〈あやまち〉、罪を障〈さわり〉などと考えていることを示しているから、仏教自身が罪は人間にとって本来的でなく外から加わった付加物であると考えていることをあらわしている。仏教の発展の中に「心性本浄」などといって、人間の心は本来清浄なものであるという説明は、このような仏教の立場を示したものである。
漢字の罪
ところで、漢字の罪という文字は「とがのことであり、法に触れ禁を犯して誅罰をこうむるようなあやまち」をあらわすといわれるから、これは本来的には、一つのルールからはずれた行為であると同時に、それをはずしたために罰せられるようなものをいうわけである。この点、罪にはその結果として罰があり、罰が結果としてもたらされるようなものを罪というと考えられる。
罪業
仏教の場合も、罪は常に罪業であり、それは罪報をうけるものとして、身、口、意の三業である身体的行為、言語的行為、精神的意志行為であり、その行為は常に、それぞれの罪苦の果報をもたらすようなものをいうわけである。
ところで、これらの行為がどうして、罪報として苦をうけるのかといえば、それは正しい真理を知らないで、真理に背反する行為を行うからであるとするのが仏教の根本的考え方である。この意味ではルールとは正智によって自覚される真理に外ならない。邪師や邪教や邪思惟によって真理に背反する行為を行うことによって罪苦の果報をうけるのである。
さて、このようにいっても、必ずしも、仏教がその当初から、このように真理に順応するものが、善であり、真理に背反するものが悪であると道徳的な基準を説き、その悪であるものが必ず罪悪として罪であるとしたかどうかは、はっきりしない。というのは、原始経典でも、また大乗経典でも、罪にあたる原語がいろいろとあり、それにしたがって漢訳者たちは、これを訳出しているからである。この点、原語の上からしても仏教における罪の概念を明らかにすることは非常に困難を伴うことである。次にできるだけこれを整理してみよう。
さて、前にのべたように人間は本来的には心清浄であり、決して、キリスト教のいうように罪人ではない。罪は外からついた垢であるとする罪垢や罪障の言葉は、決して罪は人間にとって本来的なものでないから、方法をこうずることによって、それをとり除き処理することが可能であることを示している。そこで、このような罪を造り出すものとして、貪欲とか憎悪とか迷妄というような、いわゆる貪、瞋、痴の三つの煩悩をあげ、これが人間を毒するものであるというので三毒の煩悩などといって罪垢の根本的なものと考える。
saavajja
かくして、このような三毒は人間に罪業をなさしめ、罪報を結果せしめるものとして、古い経典はこれらの三種の煩悩を「saavajja」と呼んでいる。
このsaavajjaはsa-avajjaで「有する」「もつ」を意味するsaに「罪の」「非難さるべき」を意味するavajjaが加えられ造られた合成語であって、それは元来「非難されることのあるもの」「呵責さるべきもの」を意味する言葉である。すなわち、三毒の煩悩は本来心清浄である人間にとって非難され、呵責さるべきものであるといってきた訳である。サンスクリット語のsaavadyaがこれと相応し、チベット訳では「呵責さるべき過失」と訳して〈kha-na-ma-tho-ba-Nes-pa〉としている。
aapatti
ところで、伝説では釈尊が成道されて12年目に、はじめて仏教教団の中に、戒律がもうけられたといわれている。すなわち、仏教教団の中にあって、その人の行為が教団人が目標としていた悟りを開くことの妨害となり、それが他人に影響することによって、教団自身が、その本質を失うような事件が生じたのである。それ以後このような問題が起こるごとに戒律が制定されるという事態が生じたのであり、このようにして戒律が教団の統制のための規則となり、教団人の生活規則となったのである。こうしてできあがってきた一つの教団のルールに違反することは、教団及び教団人の自殺行為として問題となり、それが罪とよばれるようになり、それに応じて文字もaapattiという言葉が使用されるようになったと思われる。
パーリ語の「アーパッティ」は、動詞「aapad」からつくられたもので「落ちること」であり「過失によっておちる」意味である。すなわち「戒律を犯すことによって」落ちるのであるから、戒律を破ることの罪である。この点ではサンスクリット語に「aparaadha」という文字があり、これは正しく「破壊すること」である。「僧伽」(教団)の秩序を破壊し、自分自身の悟りへの道を破壊するなど、このようなことが罪と考えられたことをあらわしている。
このような、教団の秩序を守るための戒律、また悟りへの道を正しくするための戒律などを箇条書きにしたものが「別解脱律儀」とよばれるが、それによって規定された教団生活のわくをこえ出ることは、明らかに罪である。それを示すものがパーリ語の「accaya」サンスクリット語の「atyaya」である。というのはaccayaもatyayaもともに「乗りこえる」という〈atii〉をもとの言葉としているからである。すなわち、法則をのりこえ、ゆき過ぎることである。
このように、罪をあらわす数々の原語について考える場合、罪という言葉の中心的な意味は、漢字自身の意味としている「法を犯し禁を破って罪せられ罰をうけること」と、ほぼ一致する。チべット訳でも、これらに相応して大体「ニエパ」〈Nes-pa〉を用いている。このチべット語はSarat Chandra Dasの“Tibetan English Dictionary”にも示されるようにサンスクリット語の「doSa, aparaadha, atyaya」に配当されるものであり、「過失」を意味する。すなわち、過失とは「避けようとすれば避けられるもの」を、避けることに失敗したことであるから、本来、注意すれば「避けられるべき〈vaijaniiya〉もの」を、避けられないで〈avajja〉それを犯した〈saavajja〉、それが罪であるというのである。
仏教の罪
このような意味で罪という言葉をみてくる時、仏教でいう罪、また罪悪が本来どのような意味であるかが明らかになる。
それは成道し仏になった釈尊によって定められた戒律に違反することであり、それは真実の人間の完成への道を誤らすものであるといえる。この点、教えそのものの根本的立場は全く異なっているが、キリスト教の罪の概念とも、ある意味では共通点をもっているといえるであろう。
キリスト教の罪
キリスト教でいわれている罪は「神のいいつけに背いた事実」「神の掟をやぶった事実」を意味している。それは「神を盗むこと」であるとさえいわれるのであり、この点、仏教の戒律と、神の掟とは全く性質を異にするが、とにかく、そのようなルールを破り、それから外へ出ることが、罪といわれる点は共通している。もっとも、キリスト教の場合、罪悪〈sin〉は人間観の根底をなす重要な概念である。
学者によれば旧約聖書には罪の概念をあらわすのに三つの言葉があるという(比屋根安定編、新キリスト教辞典)。それは「ハッタース」と「アーオーソ」と「ペシャー」との三つの言葉であるといわれる。この中、第一の「ハッタース」は「的をはずす」ことであり、これは正当性を得ていないことだから、誤りをいう。次に「アーオーソ」とは「曲がる」という動詞からきたものであるから、それは邪悪な行為を意味することとなるわけである。次に第三の「ペシャー」は「そむく」ということである。ところで、キリスト教の場合、その罪という点では、この第三の「ペシャー」に中心をおくというのである。
すなわち、人間の罪とは、人間自身が自分の意志によって神に反逆することである。これが旧約聖書の罪悪観の根本である。神の命令に背き、神に離反した、神に対する不従順者、それこそが人間である。しかも、その罪は単なる個人の罪として成立するものでなく、人類の最初の祖先、始祖というべきアダムの原罪として普遍化され、一般化され、人間である限り誰もこれを拒否することのできない本来的な罪であり、誰もが背負ってゆかねばならないものである。
しかし、このような旧約聖書の罪に対する考え方も、新約聖書においては、ある展開を示している。新約聖書では、罪をあらわす言葉は前の三つと異なって、新しい言葉として主として「マルティァ」の語が用いられるようになる。この言葉は「的をはずす」「失敗する」という通俗語から転用されてできた言葉であるといわれ、ここには人類全体の背負っている原罪ということから、罪に対する個人的責任への反省があらわされているといわれる。今日のキリスト教の展開しているヨーロッパ社会の根底には、かのヘレニズム的な個人主義的倫理観、正義観の流れがあることをみれば、この展開は、当然というべきであろう。
原初的意味
仏教の場合であるが、そこに示される戒律を基盤として、それに反する罪という考え方は、やがて大乗仏教の興起とともに、その形式性を脱して、より人間にとって根本的に考えられるようになってきたという。それは最も古い当初の仏教の時点に帰ったといってもよいであろう。すなわち、真如に背いた無明による行為は、すべてが悪であり、それこそが罪なのである。いわゆる罪を仏道修行という実際面において自律的に解釈してきたのである。罪障とは聖道を障碍するからであり、仏道の邪魔になるものである。この点、いわゆる戒律を基準として、形式的に考えられた罪悪観とは異なって人間観の根本にかかおるものとして考えられたのである。
ところが、このような人間観の根本として罪がとりあげられてきた代表的な教えはいわゆる浄土教であったといってよいであろう。そこでは罪悪観が単なる人間における罪が何であるかというような問題のとりあげ方ではなく罪悪観が痛烈な人間批判としてとりあげられるのである。もちろんこのようにいっても、それは旧約聖書が人間観の根本として罪悪観をとりあげた仕方とは根本的に異なって、やはり罪は垢であり、障であるとしたことには変わりはない。
浄土教の罪
しかし、ここでは罪を現在の人間生活の中に現実として、人間の根本的あり方として直視してきたのである。ことにこの点を明らかにしたのは、善導大師であると思われる。
進むも死、退くも死、とどまるも死といわゆる三定死の教えを説く二河白道の譬喩に示される人間の現実は、それこそ罪悪生死の凡夫なのである。ここでは貪欲と瞋恚〈いかり〉の心にさいなまれ、自己本意によりほかに行勤しえない人間の姿が示されている。すなわち、この痛烈な人間批判こそが、まず機の深信として示される。
- 決定して、深く自身は現に是れ罪悪生死の凡夫。曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなしと信ず
と。絶対の弥陀法――それこそ人間本来の完成した姿――に照らされた自己をみつめて、罪悪生死の凡夫という。すなわち、ここにいわれる「自身は」とは人間本来の真姿である平等一味の絶対の立場からみた人間自身であり、それは単に善導自身だけではない。そこに現実の人間への痛烈な批判が語られているのである。法然の「愚痴の法然」もこれであり、親鸞の「愚禿」もこれである。しかも、このように人間が罪悪生死の凡夫であることにおいて、弥陀の誓願があり、その誓願の成就による名号の救済のみが本当に人間を救いうるものであり、人間を真の人間たらしめるものであるとして
- 決定して深くかの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなく、彼の願力に乗じて、定んで往生をうと信ず
と説かれるのである。
ここでは、罪悪生死とは仏に背くことでも、仏を盗むことでも、仏から離反してゆくことでもなく、我にとらわれ、自己の所有に執着し、常に自己中心に狭い世界の中に自己を固定化してゆく人間の現実をいうのである。本来的に一味平等である人間がその自覚に達することができないで、常に自我の世界に閉じこもり、自他差別の世界に生き、不自由をかこち、不足や不満に愚痴をこぼしている。これこそが罪悪なのである。
このように、正しい人間のあり方の障害となり、悪の果報、苦の果報をひく行為として三毒をさしていわれた罪が、やがて、教団という組織の確立と、釈尊という最高人格をモデルとする生活に反するものの意味となり、しかもそれは避けようとすれば、避けられるにもかかわらず、人間自身の本能的欲望のままにひきずられて、そこにはまりこみ、もがいている自身の弱さ、否、人間の弱さに罪を感じてきたのである。
まとめ
かくて、仏教でいう罪は、一概に規定することはできないとしても、それが罪垢であり、罪障であり、いねば外来的であること、またそれが現実の人間の批判に基礎づけられているということ、全く自律的に考えられているということに注意すべきである。これこそ、現代人が仏教に学ぶべき大切な点であると思われる。法律という枠の中でなら他人が迷惑しても、また道義的に芳ばしくないことでも正しいとする他律的道徳生活は、真に人間の正しい生き方とはいえない。仏教が罪悪に関し自律的立場をとることに学ぶならば、そこにこそ真に個人道徳と社会道徳を人間の正しい生活として、法律以前で綜合統一することができるであろう。