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+ | 智顗が仮について述べるとき、「空も空に非ず」という説明を与えている点に注目して、仮は、空が仮に立てられたものであり、実体視されてはならないことを表わす概念と解する見方がみられるが、彼のいう仮はそうしたこと以上に、あらゆる存在を仮に | ||
+ | あるものとして肯定的に示すために用意された概念という意味あいを強くもっている、といってよいであろう。<br> | ||
+ | ところですべての事象は空とか仮の面から一面的に捉えつくされるものではなく、空でありつつ仮であり、そしてそのありようはわれわれの思盧分別を超えており、言葉によって表示できるものではない。「中」とは存在するもののこうしたあり方を示すものである。 | ||
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+ | なおこの空.仮・中は隔別の関係にはなく、空は同時に仮・中であり、仮は同時に中・空であり、中は同時に仮・空であり、円融しているとされる。天台で即空即仮即中ということが強調されるが、これはそうしたことを表わしている。だから諸法の実相を了知せんとするものは、三諦を個々に観じとってはならない。そうした見方は別教のそれであり、円教においては空・仮・中が同一時に観得されねばならないことになる。円教のこの観法は一心三観と呼ばれるものにほかならない。 | ||
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+ | なお智顗が三諦を表わすとき、つねに空・仮・中であるのかというと、そうではなく、有諦・無諦・中道第一義諦であったり、また真諦・俗諦・中道第一義諦であったりして、必ずしも統一されていない。しかし意味には違いが認められず、いわば異語同義概念として用いられている。三諦の表現に違いが生じたのは先行する経論中にみえる表現を活かし用いたからであろう。 | ||
+ | なお智顗の三諦説は『中論』第24章第18偈を一つの重要な教理的背景として形成されたものであることは、彼自身の主張から明らかであるが、しかし龍樹の偈の原意を必ずしも忠実に受けず、独自の解釈が施されている点が指摘されている。この点も看過されてはならないであろう。 | ||
[[てんだいしゅう|天台宗]]ではすべての存在がそのままで[[しょほう|諸法]][[じっそう|実相]]の真理を明らかにする3面として、[[くう|空]]・[[け|仮]]・[[ちゅう|中]]の三諦(真俗中の三諦)を説く。<br> | [[てんだいしゅう|天台宗]]ではすべての存在がそのままで[[しょほう|諸法]][[じっそう|実相]]の真理を明らかにする3面として、[[くう|空]]・[[け|仮]]・[[ちゅう|中]]の三諦(真俗中の三諦)を説く。<br> |
2018年1月14日 (日) 12:47時点における最新版
三諦
空仮中の3種の真理。天台宗の説。
智顗が特に重視した、現象世界の真実のすがた(=諸法の実相)を表わす真理のことである。
諸法(現象する世界のもろもろの事物)は因縁によって生じたものであり,それ自身の自性(本性)をもつものでないから「空」である。このことはたしかに真理に違いないが、しかし空という特殊な原理をそれらの上にみてはならない。空は実は仮に立てられたものであり、諸法を空そのものとして了解することはできない。もしも空という面で一方的に理解してしまうと、諸法を無そのものと解しなければならなくなってしまうであろう。それではそれの正しい理解につながらない。諸法は無なるものではなく、われわれの認識主観に触れるものであり、名称をもって指示されうる個別的なものでもある。あらゆる事象は仮のものとして現にあるものなのである。これが「仮」の意味である。
智顗が仮について述べるとき、「空も空に非ず」という説明を与えている点に注目して、仮は、空が仮に立てられたものであり、実体視されてはならないことを表わす概念と解する見方がみられるが、彼のいう仮はそうしたこと以上に、あらゆる存在を仮に
あるものとして肯定的に示すために用意された概念という意味あいを強くもっている、といってよいであろう。
ところですべての事象は空とか仮の面から一面的に捉えつくされるものではなく、空でありつつ仮であり、そしてそのありようはわれわれの思盧分別を超えており、言葉によって表示できるものではない。「中」とは存在するもののこうしたあり方を示すものである。
なおこの空.仮・中は隔別の関係にはなく、空は同時に仮・中であり、仮は同時に中・空であり、中は同時に仮・空であり、円融しているとされる。天台で即空即仮即中ということが強調されるが、これはそうしたことを表わしている。だから諸法の実相を了知せんとするものは、三諦を個々に観じとってはならない。そうした見方は別教のそれであり、円教においては空・仮・中が同一時に観得されねばならないことになる。円教のこの観法は一心三観と呼ばれるものにほかならない。
なお智顗が三諦を表わすとき、つねに空・仮・中であるのかというと、そうではなく、有諦・無諦・中道第一義諦であったり、また真諦・俗諦・中道第一義諦であったりして、必ずしも統一されていない。しかし意味には違いが認められず、いわば異語同義概念として用いられている。三諦の表現に違いが生じたのは先行する経論中にみえる表現を活かし用いたからであろう。
なお智顗の三諦説は『中論』第24章第18偈を一つの重要な教理的背景として形成されたものであることは、彼自身の主張から明らかであるが、しかし龍樹の偈の原意を必ずしも忠実に受けず、独自の解釈が施されている点が指摘されている。この点も看過されてはならないであろう。
天台宗ではすべての存在がそのままで諸法実相の真理を明らかにする3面として、空・仮・中の三諦(真俗中の三諦)を説く。
これは『瓔珞本業経』賢聖学観品や『仁王般若経』二諦品などの説に基づいて、智顗の『法華玄義』巻1上、巻2下、『摩訶止観』巻1下、巻3上、巻5上などに説くところである。
- 空諦(真諦、無諦)とは、すべての存在は執われの心によって考えられるような実体はなく、空無のものであること(破情)
- 仮諦(俗諦、有諦)とは、すべての存在は無実体のために縁によって仮に生じ存在するものであること(立法)
- 中諦(中道第一義諦)とは、すべての存在は一面的に考えられるような空・仮を超えた絶対のものであって、その本体は言説思慮の対象ではないこと(絶待)
この三諦の説は化法妙の四教のうち別・円の二教で説かれるが、別教の三諦は隔歴<きゃくりゃく>二諦、歴別<りゃくべつ>三諦、次第三諦、不融三諦、別相三諦、