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ほんがく

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2023年3月8日 (水) 14:50時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (大乗起信論)

本覚

 本来の覚性(かくしょう)ということで、一切の衆生(しゅじょう)に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧(ちえ)を意味する。如来蔵(にょらいぞう)とか仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。
 真諦訳『大乗起信論』の用例が基本的なものである。そこでは、現実における迷いの状態である「不覚」(ふかく)と、修行の進展によって諸種の煩悩(ぼんのう)をうち破って悟りの智慧が段階的に当事者にあらわになる「始覚」(しかく)と相関して説かれている。迷いの世界にいながら悟りの智慧のはたらきが芽生えてくる過程の中で、そのような智慧のより根源的なありかたとしての本覚という観念の存在が考えられた。唯識(ゆいしき)思想における阿頼耶識(あらやしき)の種子(しゆうじ)の本有(ほんぬ)・始有の考えかたから発想されたと考えられ、われわれの日常心の根源的なありかたを説明する術語である。
 日本の本覚思想では、心の絶対的なあり方(心真如(しんしんによ))と同置され、「本覚・真如」と並べることもある。

本覚

 本有の覚性の意味。始覚の反対語である。すなわち本来覚知の離念の心体を言う。

 言う所の覚の義とは、謂はく心体は離念なり。離念の相とは虚空界に等しく、徧ぜざる所なく、法界一相なり。即ち是れ如来の平等法身なり。此の法身に依りて説いて本覚と名づく。本覚の義は始覚の義に対して説く、始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり。〔大乗起信論、T32.0576b〕

と『起信論』にある。これは阿梨耶識中の覚に本覚始覚を分けて、発心修行して漸次に心源を覚知するのを始覚と名づけ、これに対して離念の心体である如来の平等法身を本覚と名づけたものであり、本有の覚性を指している。
 同論では、随染と性浄の2義にまとめて本覚の相を明かしている。随染とは不覚離染の法に対して本覚の体相を説示するものであって、これに亦智浄相、不思議相の2種の別があり、真如薫習の力に由りて如実に修行し、梨耶和合識の相を破し、五意相続心の相を滅し、法身顕現して智体淳浄であるのを智浄相と名づけ、智がすでに淳浄であるから衆生のに随って自然に相応し、種々に示現して利益の事を作し、常に断絶することがないのを不思議業相と名づくと言う。これは本有自性の覚知およびその業用が妄染を離れるので、まさに顕現することを設けるものである。
 また本覚はこれを「明鏡」に比べて4種の義がある。

  1. . 如実空鏡
    鏡面が空浄であって、なんらの外の物が現じないように、心体離念しているので、一切心境界の相を遠離して、畢竟清浄無垢である。
  2. . 因薫習鏡
    如実不空鏡であって、鏡面にあらゆる境界の相を映じて、不出不入不失不壊であって、心体常住一切法の真実性となって、また自ら無漏の性功徳を具足して能く因となって衆生に薫習するのを言う。
  3. . 法出離鏡
    塵垢を払拭して鏡面が浄明になったように、覚性が煩悩礙智礙を出て、和合相を離れて淳浄明となったのをいう
  4. . 縁薫習鏡
    鏡はすでに払拭されて人のために受用されるように、智性淳浄になることができたから、あまねく衆生の心を照らして、念に随って示現して、外縁の薫習力となって善根を修行させる。

 この中で、前の2鏡は在纏の本覚に就いて自性浄をを明かしたものであって、ここに空・不空の2義があるとするのは、心真如門中の如実空・如実不空の説と同じといえる。後の2鏡は出纏の本覚に就いて離垢浄を明かしたものであって、これに出離縁薫の2義があるとするのは、前の智浄相・不思議業相と同義であるといえる。また、因薫・縁薫の2鏡を分けているのは、本覚が向上還滅の内因外縁であることを明かしたものであって、真如の自体相薫習・用薫習に相当する。
 たしかに本覚・始覚の説は『菩薩地持経』第一種性品に、修性に性種性・習種性の2種あることを説いて、菩薩の六入殊勝にして展転相続無始法爾なることを性種性として、先来修習の所得なるを習種性と名づくと言い、『仏性論』第2三因品に、仏性に住自性性、引出性、至得性の3種にわけ、道前凡夫位を住自性、発心以上の有学聖位を引出性、無学聖位を至得性とする。

 垢浄二滅とは謂はく本来清浄と無垢清浄となり。(中略)本来清浄は即ち是れ道前道中、無垢清浄は即ち是れ道後なり。此の二の清浄を亦二種涅槃と名づく。前は即ち非擇滅自性本有にして智慧の所得に非ず、後は即ち擇滅にして修道の所得なり。前に訳するが故に本有と説き、後に訳するが故に始覚と説く。〔三無性論上、T31.0872c〕

というに合致することがあるように、また本覚の語は真諦等も唱えている。圓測の『解深密経疏』第3に、真諦の九識義を引いて

 一の真如に於いて其の二義あり、一には所縁の境なり、名づけて真如及び実際等となす。二には能縁の義なり、無垢識と名づけ、亦本覚と名づく。〔解深密経疏3〕

と言い、

 諸仏如来は常に一覚を以って而も諸識を転じて庵摩羅に入らしむ。何を以っての故に、一切の衆生は本覚なれば、常に一覚を以って諸の衆生を覚し、彼の衆生をして皆本覚を得て、諸の情識の空寂無生なるを覚せしむ。〔金剛三昧経本覚利品、T09.0368b〕

とあり、

 心真如を説いて之を名づけて心となす、即ち此の心を説いて自性清浄となす。此の心は即ち是れ阿摩羅識なり。〔大乗荘厳経論6、T31.0623a〕

と言い、

 此の境識俱に泯ずるは即ち是れ実性なり、実性は即ち是れ阿摩羅識なり。〔転識論、T31.0062c〕

とあることから、『起信論』の本覚説は真諦のいわゆる阿摩羅識説を承けて、真如能縁の義である自性清浄心を意味するものであると言うべきであろう。
 法蔵が本覚と真如門との区別を説いて、

 真如門は泰の絶相に約して説き、本覚は性の功徳に約して説く。謂はく大智慧光明の義等を本覚と名づくるが故なり。本とは是れ性の義、覚とは是れ智慧の義なり。此れ皆妄染に翻じて顕さんが為なるを以ってなり。故に生滅門中に在りて摂す。真如門の中には翻染の義なきを以っての故に此れと同じからず。是れの故に体相二大を俱に本覚と名づけ、並びに生滅門の中に在り。故に三大を具することを得るなり。〔法蔵、大乘起信論義記中本、T44.0256a〕

と言っている。これは真如門は約体絶相なので翻染の義がないから、ただ体大に属して、本覚は妄染に翻じて顕すものであるから、体相二大をその義とすることを明かしたものである。
 『釋魔訶衍論』第3には別種の説があり、覚の義に本覚・始覚・真如・虚空の4門が在りとして、これを四無為と名づけて、此の4門にまたそれぞれ清浄と染浄の2門に分けて、その中で本覚の2字にそれぞれ十義あることを説いて、即ち「本」は本有法身であって、根・本・遠・自・体・性・住・常・堅・総の十義を具え、「覚」は薩般若であって、これに鏡・開・一・離・満・照・察・顕・知・覚の十義を具えている。是れ真如を体、本覚を相、虚空を用として、本覚下転を智の体、始覚上転を智の用となす意味である。
 この中で、真如に染浄に分けてこれを生滅門に摂めて、真如および虚空を覚すなわち能証の智の分斉として、且つ始覚・本覚を共に無為と名づけるが如き、皆従来の説くところとすこぶる趣を異にするのを見るべきである。
 しかし、空海はもっぱらこの論に依憑して、『大日経』の開題に

 大毘盧遮那とは自性法性身なり、即ち本有本覚の理身なり。次に成仏とは受用身なり、此に二種あり、一には自受用、二には他受用なり。修得にして即ち始覚の智身なり。

また、『金剛頂経』開題に

 密の義は五智の仏を一切如来と名づく。一切の諸法を聚めて共じて五仏の身を成ずるが故なり。此の五仏は則ち諸仏の本体、諸法の根源なり、故に一切如来と名づく。此の五智に二の別あり、一には自の五智の仏、二には他の五智の仏なり。他の五智の仏に亦二あり、一には先成就者、二には未成就の仏なり。先成就に亦二あり、一には自先成就、二には他先成就なり。自他の本覚の仏は則ち法爾自覚ににして、本来三心四徳を具足し、無始より恒沙の功徳を圓満す。謂ゆる恒沙の性徳とは五智三十七智及び塵数の眷属等なり。(中略)此の五智の仏及び三十七智の仏、乃至無量俱胝の仏は修行を観ぜず、対治を待たず、本来此の法爾の仏位に住して四種の法身を具し、塵沙の荘厳を備ふ。四種の法身と言ふは、自性身・受用身・変化身・等流身是れなり。此の如き四種の法身は自然自覚なり、故に先成就の本覚の仏と名づく。〔金剛頂経、開題〕

と云そ、更に此の本覚に三自一心門の本覚、一々心真如門の本覚、不二魔訶衍一心の本覚の三種ありとし、其の中又三自一心門の本覚に染浄本覚、清浄本覚、一法界本覚、三自本覚の四種、一々心真如門の本覚に清浄真如本覚、染浄真如本覚の二種を分別し、而して金剛頂経所顕の本覚は、通じて言はば一切の本覚を摂し、別しては不二門の本覚を表すとなせり。是れ蓋し五智三十七智乃至四種法身は皆自然自覚にして修行を仮(カ)らず、対治を待たず、本来自爾の仏位に悉く具足すとなすの意にして、即ち本有説を極度に協調せしものというべし。
 聖憲の『大疏』第3重第5に

 一家の意は本覚門の法門なるが故に、因と云ひ果と云ふも、我等の介爾汎汎所起の妄想等の心念の外に全く以って其の体なしと云ふを規模と為す。故に如実知自心と云ふ。強ゐて究竟の仏果を謂ふには非ず。〔大疏百條第三重第5、T79.0670a〕

と言い、また宥快の『金剛頂経開題鈔』第5に、

 彼の初重の問答は染浄始覚なり。然るに本覚と釈する事は本覚門を以って一切を尽くすが故に、始覚をも即ち本覚と釈し給ふなり。一法界三自不二等も論には本覚と名づくることなしと雖も、高祖は本覚門を以って一切の性相を尽くすが故に此の如き御釈あり。〔〕

というに依るに、空海はもっぱら本有本覚門をもってその宗旨としていることを知る。
 また天台宗においても、これを法華本迹二門の説に会合し、本門を本覚下転、迹門を始覚上転の法門となし、昔迹本観四重興廃、三種法華論等の説を唱道して本門事圓絶対の思想を高調し、本覚法門の特異なる発達を見ることになったのである。漢光類聚第4に依ると、最澄入唐求法の時、道遽から『摩訶止観』を中心とする天真独朗の一心三観、九識修行、従果向因、観心為本の本覚法門を伝え、行満から法華玄義および文句を中心とする四教五時、六識修行、従因向果、教相為本の始覚法門を伝え、爾後展転相承するのだが、良源になって、上足の源信につぶさに2法門(一説には本覚法門)を授け覚運にはただ始覚の一門だけを伝えたという。古来、慧心流を以って本覚法門、檀那流を以って始覚法門の相承であると言われており、慧心流に三十七箇、檀那流に両箇五箇の大事塔の口伝法門があるとされるのだが、これらは皆二師の没後、両門対立するようになって、初めて唱道されるようになったと思われる。

本覚・始覚

 無始の迷いを次第にうちやぶって徐々に心源を覚知するのを始覚といい、煩悩に汚れた迷いのすがたであるにも拘わらず、心の本性は本来的に清らかな覚体そのものであるのを本覚という。

大乗起信論

 大乗起信論では、万有は一心に摂まるとし、一心について心真如門心生滅門とを立てる。
 心真如門からいえば、心はあらゆる差別を超えた清らかな絶対であり、そこでは本覚・始覚の名すらないが、その心が無始の無明に汚されて動的な差別相を現す心生滅門において本覚・始覚の別を生ずるとする。即ち、この区別は阿黎耶識中の覚の区別であって、真如が無明の縁に遇って迷いの現象を起こすとき、その心は全く昧<クラ>まされたさとりなき心であるから不覚であるが、しかもその本性は心の動き、即ち念を離れた浄らかなものであるから、これは本来的にさとりそのものであるとの意で本覚と呼ばれる。そして、不覚は本覚の内からのはたらき(内薫習力)と教法の外からの縁(外薫習力)とによって次第に呼びさまされ、ここに発心修行の段階に応じた智慧を得ることになる。これを始覚と名づける。即ち、始覚は修行者の段階に応じて、

  • 不覚
     十信外凡の人が悪業の因によって苦果を招くことを知ってすでに悪業を離れたが、まだ煩悩を断つ智を起こさない位
  • 相似覚
     二乗および三賢の菩薩が我執を離れて我空の理を覚知したが、まだ法執を離れていない位
  • 随分覚
     初地以上の菩薩が法執を離れて、それぞれの地に応じて真如の一分をさとる位
  • 究竟覚
     第一○地の菩薩が因行を完成して、一念に相応した慧をもって心の初めて起こるのを覚る

の四位に分けられ、遂に仏果に至れば始本不二絶対平等の大覚を成じるとする。
 この四位は、始覚の四位とも反流の四位とも称される。迷いの世界のさまよい(流転)は衆生心の生住異滅の相にほかならないが、この四相を逆次に覚知するのがこの四位だからである。即ち不覚は衆生心の滅相を覚知し、また究竟覚は衆生心の生相を覚知する。ここにいう反流とは、生死の流れにさからってさとりの方向に向かう(還滅)という意味である。
 また本覚を、作用の点から随染本覚、体徳の点から性浄本覚として説明する。
 即ち、随染本覚は煩悩の汚れに対して本覚の作用を明らかにするものでこれに2があり、始覚の智慧によって不覚の妄染を尽くして本来清浄な本覚の相に還るのを「智浄相」、始覚を全うして妄染を尽くし本覚の性徳が顕れて利他のはたらきを示すのを「不思議業相」とする。
 また性浄本覚とは、本覚の体相が本来清浄で無限のはたらきのあることを示すもので、鏡に喩えて、「如実空鏡」「因薫習鏡」「法出離鏡」「縁薫習鏡」の4鏡とする。このうち前の2鏡は在纏の本覚が煩悩にまとわれていてもその自性は浄らかであることを示すものであって、真如に「如実空」と「如実不空」との2義があるように、在纏の本覚にも「空」(相を離れている面)と「不空」(あらゆる功徳を具えている面)との2義があることを明らかにし、後の二鏡は出纏の本覚が煩悩の垢を離れて浄らかであることを示すものであって、随染本覚の智浄相と不思議業相との2と同じ意味を表す。ここに、因薫・縁薫の2鏡を分けたのは、本覚がさとりに還るための内因・外縁を意味する。即ち本覚が内に浄薫をなしてそれが因となって始覚を起こし(因薫)、また本覚は始覚を起こすための外縁の薫力ともなる(縁薫)のである。

釈摩訶衍論

 釈摩訶術論巻三には、覚には本覚・始覚・真如・虚空の4つの意味があるとして「四無為」と名づけ、しかもこの四門のそれぞれを清浄と染浄との2に分けて説明する。空海は釈摩訶術論の説を重く用いて諸著に引き、真言宗はすべてのものがそのまま本来的に仏であることを立場とする本有本覚門の主張に立つものであると明らかにし、また胎蔵界を本覚、金剛界を始覚にあてて、金胎両部が二にして不二であるなどと説く。

日本天台宗

 日本の天台宗では、法華経の本迹二門の説と結びつけて、本門は本覚下転(果より因へ)、迹門は始覚上転(因より果へ)の法門(教え)であるとする。最澄は入唐して[どうすい|道邃]]から本覚法門を、行満から始覚法門を承けたといわれ、中世以降では恵心流が本覚法門、檀那流が始覚法門を伝えたとされる。