せしん
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世親
vasubandhu वसुबन्धु(skt))(4c-5c)、「天親」(旧訳)
400-480年ごろ(or 320-400年ごろ)、現在のパキスタン、ペシャワールの人で、無着(むじゃく、asaṇga असण्ग(skt))の弟。
初め部派仏教の説一切有部(sarvaasti-vaadin सर्वास्तिवादिन्(skt))を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無着から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識学派に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた。
古くの伝には、次のようにある。
北インドのペシャワール城の人。国師バラモンの憍尸迦の第2子で、無著(Asaṇga)の弟である。初め説一切有部に出家し三蔵を受持し、博学多聞、神才俊朗にして他に匹敵する者が居なかった。後に経量部に学び、有部の義について取捨するべきものがあると感じ、更に『毘婆沙論』を研鑽して是非を考定しようと思い、カシュミール国に入ってその義を4度にわたって学んだ。続いて本国に帰って衆生に『毘婆沙論』を講義する。一日講じるごとに一偈を造り、順次600偈を造って、これをカシュミール国に送ったところ、王および僧侶たちは大いに欣悦し、これによってわが宗義を弘顕するとして、金を贈ってさらに長行を造ってほしいと乞うのであった。そこでヴァスバンドゥは早速長行を造ってこの偈を釋し、さらに破我の一品を加えて『阿毘達磨倶舎論』と名づけて、再びカシュミール国に送ると、経量部の義をもって『毘婆沙論』の説を評破する部分が少なくなかったので、かの国の僧侶たちは失望した。
その時、悟りに入った弟子の一人に衆賢がいて、師の論を破斥しようと企てて、12年研鑽してついに『倶舎雹論』を造って、学僧たちと共にこの書をもって師を訪ねて問難しようとした。その時、師は傑迦国奢渇羅城に在って、衆賢が来ることを聞いて、忽ち行装を改めて、中インドに避けて赴いた。衆賢はさらに師を追って秣底補羅国の一伽藍まで至ったが、にわかに疾を得て亡くなったという。
また、『婆数槃豆法師伝』によると、仏滅900年中に外道に頻闍訶婆沙と名づくる者があり、龍王から『僧佉論』を受けて阿踰闍国に至って国王の超日(Vikramāditya)に請い、仏徒と論議したいと求めた。
著作
- 倶舎論 説一切有部の教義を体系化した論書で、極微(ごくみ)説、特殊相対性原理の祖形にも論及している。
- 唯識二十論
- 唯識三十頌 後に多くの論師によって注釈書が作られ、唯識の基本的論書となる。
- 大乗成業論
- 大乗五薀論
- 大乗百法明門論
- 仏性論
- 浄土論 後に曇鸞によって『浄土論註』が書かれ、浄土教もっとも重要な論書とされる。
これ以外に中辺分別論、大乗荘厳経論、摂大乗論などの注釈書も残っている。
像
興福寺世親菩薩蔵[1]