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せしん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2018年4月13日 (金) 21:39時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (世親)

世親

vasubandhu वसुबन्धु(skt))(4c-5c)、「天親」(旧訳)

 400-480年ごろ(or 320-400年ごろ)、現在のパキスタンペシャワールの人で、無着(むじゃく、asaṇga असण्ग(skt))の弟。
 初め部派仏教説一切有部(sarvaasti-vaadin सर्वास्तिवादिन्(skt))を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無着から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識学派に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた。

 古くの伝には、次のようにある。
 北インドのペシャワール城の人。国師バラモンの憍尸迦の第2子で、無著(Asaṇga)の弟である。初め説一切有部に出家し三蔵を受持し、博学多聞、神才俊朗にして他に匹敵する者が居なかった。後に経量部に学び、有部の義について取捨するべきものがあると感じ、更に『毘婆沙論』を研鑽して是非を考定しようと思い、カシュミール国に入ってその義を4度にわたって学んだ。続いて本国に帰って衆生に『毘婆沙論』を講義する。一日講じるごとに一偈を造り、順次600偈を造って、これをカシュミール国に送ったところ、王および僧侶たちは大いに欣悦し、これによってわが宗義を弘顕するとして、金を贈ってさらに長行を造ってほしいと乞うのであった。そこでヴァスバンドゥは早速長行を造ってこの偈を釋し、さらに破我の一品を加えて『阿毘達磨倶舎論』と名づけて、再びカシュミール国に送ると、経量部の義をもって『毘婆沙論』の説を評破する部分が少なくなかったので、かの国の僧侶たちは失望した。
 その時、悟りに入った弟子の一人に衆賢がいて、師の論を破斥しようと企てて、12年研鑽してついに『倶舎雹論』を造って、学僧たちと共にこの書をもって師を訪ねて問難しようとした。その時、師は傑迦国奢渇羅城に在って、衆賢が来ることを聞いて、忽ち行装を改めて、中インドに避けて赴いた。衆賢はさらに師を追って秣底補羅国の一伽藍まで至ったが、にわかに疾を得て亡くなったという。
 また、『婆数槃豆法師伝』によると、仏滅900年中に外道に頻闍訶婆沙と名づくる者があり、龍王から『僧佉論』を受けて阿踰闍国に至って国王の超日(Vikramāditya)に請い、仏徒と論議したいと求めた。

著作

  1. 倶舎論  説一切有部の教義を体系化した論書で、極微(ごくみ)説、特殊相対性原理の祖形にも論及している。
  2. 唯識二十論
  3. 唯識三十頌  後に多くの論師によって注釈書が作られ、唯識の基本的論書となる。
  4. 大乗成業論
  5. 大乗五薀論
  6. 大乗百法明門論
  7. 仏性論
  8. 浄土論 後に曇鸞によって『浄土論註』が書かれ、浄土教もっとも重要な論書とされる。

 これ以外に中辺分別論大乗荘厳経論摂大乗論などの注釈書も残っている。

興福寺世親菩薩蔵[1]