あみだにょらい
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阿弥陀如来
〈Amitāyus-nāma-tathāgata〉〈Amitābha-nāma-tathāgata〉
姚秦の鳩摩羅什〈Kumārajīva〉〈344~413〉の訳である『仏説阿弥陀経』では「無量寿」と訳すべき「アミターユス」〈amitāyus〉も「無量光」と訳すべき「アミターバ」〈amitābha〉も、ともに「阿弥陀」とのみ訳している。すなわち、この場合、阿弥陀ということばは、原語としてアミターユス(無量寿)とアミターバ(無量光)の二種をもっている。したがって、阿弥陀仏とか阿弥陀如来とかという場合、それは内容的には「無量寿無量光仏」であり、「無量寿無量光如来」である。
同じ羅什訳の『仏説阿弥陀経』において「阿弥陀仏」と訳出されている場合の原語をたずねてみると、それが「アミターユス」(無量寿仏、無量寿如来)である点は注意しなければならない。このことは阿弥陀仏の本質ともいうべきものが寿命無量という点にあることを示すものであり、この仏が慈悲(=寿命)の仏であることを示している。
このように、阿弥陀仏を無量寿で代表せしめるしかたは『法華経』でも同じであり、たとえば「化城喩品」に「西方阿弥陀」と訳されているものは、梵本では「アミターユス」とある。『正法華経』の同処は、これを「無量寿」と訳している。さらに『金光明最勝王経』でも阿弥陀仏をいうところは「無量寿」である。
以上の例のように、阿弥陀仏は無量寿で語られる例が多い。もちろん、光明で語られることのあることはいうまでもないが、それは多く密教経典にみられる点が特徴である。このような点で、阿弥陀仏は智慧の仏よりも慈悲の仏であるというべきである。
訳語としては「阿弥陀」と音訳するものが一般的であるが、それは内容的に光明と寿命とを内含するから、両者に共通の「無量」の原語の「アミタ」をとったのであろう。
次に「無量寿」と訳出したものが、前者に次いでいる。梵語「アミターバ」は「阿弥眵婆」「阿弥多婆」「阿弥多婆耶」「阿弥陀婆」などと音写され、「アミターユス」は「阿弥多瘦」「阿弥陀瘦斯」と音写され、多く密教経典で用いられる。
天台宗の荊渓大師湛然〈711~782〉が「諸経所讃多在弥陀」といって、諸大乗経に阿弥陀仏に関説するものの多いことをいっているが、確かに大乗経典の大体三分の一を占めている。
しかし、阿弥陀仏をその中心とする経典は、浄土教の根本的依拠となった浄土三部経、すなわち『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』である。かくて、阿弥陀仏信仰は、浄土三部経を中心として、大乗仏教の中で大きな位置を占めているのである。
このような阿弥陀仏信仰が、どこで、いつ、どういう状況のもとに起こったかということは、非常に困難な問題であり、学問的にはなかなか結論の出にくいことである。しかし、インドはとにかくとして、中国や日本では永い伝統をもち、その信仰の中に、多くの人々が救われてきたことは疑うことのできない事実である。
中国では、この阿弥陀仏信仰が念仏の教えとして伝統を形づくっている。すなわち、浄土教の伝統として念仏の教えは、束晋時代、白蓮社の念仏といわれた「廬山流」の念仏が慧遠〈334~416〉によってはじめられ、当時、非常な流行をみた。これに参加するもの道俗123人であったともいわれている。
唐代には善導大師〈613~681〉が出て、曇鸞の教えをうけた道綽〈562~645〉の教えによって浄土教を学び、これを大成し、いわゆる「善導流の念仏」をひろめた。さらに慈愍三蔵慧日〈680~748〉によって「慈愍流の念仏」の盛行をみるのである。このように中国では現在にいたるまで、念仏の教えは続いている。
日本においては、主として善導流の念仏の伝統をうけ、源信によって体系化された叡山浄土教の系統が今日までうけつがれてきたが、奈良時代には元興寺にいた智光・礼光のような西方浄土願生者があり、平安時代には永観珍海のような称名念仏の主唱者があり、また鎌倉初期にも法相宗系の人々、真言宗系の念仏者などあって、けっして念仏の教えは一つではなかった。
しかし、日本浄土教の主流は、源信〈942~1017〉によって体系化された叡山浄土教系の念仏の教えであった。すなわち、善導の称名思想をとり入れて念仏の教えを体系化した源信、さらに、これを浄土宗として独立して流行せしめた源空〈1133~1212〉法然上人によって拡められた浄土教である。
成仏の因縁
このように人々の間に民衆の仏教として拡まった阿弥陀仏信仰とはいったいどのような教えかというに、この阿弥陀仏の成仏の因縁について多くの異論がある。
明代の祩宏〈しゅこう〉〈1533~1615〉は、仏教経典の中に説かれるものを集めて8種の説をあげる。
徳川中期、真宗の僧俊諦〈しゅんたい〉〈1664~1721〉は、これより他に7種ありと同じく阿弥陀仏の成仏の因縁をあげている。
それらの中には、『法華経』「化城喩品」中の大達智勝如来の時の十六王子の出家、その第九王子こそ西方に成仏した阿弥陀仏であるという説や『悲華経』の無諦念転輪王作仏して阿弥陀仏となるという説などが示されている。ちなみに、これらにあげられる経典は前記2経の外『大乗方等総持経』『賢劫経』『観仏三昧経』『宝積経』(護国菩薩会)『観察諸法行経』などがあげられている。
このように阿弥陀仏について説かれる経典は、実に多種多様であるが、これらの説の趣旨が根本趣旨においては必ずしもまったく異なったものではなく、そこに共通の理念が見られることは矢吹慶輝博士の『阿弥陀仏の研究』中に詳しく論じられている。
無量寿経での成仏
さて、これらは、とにかくとして、阿弥陀信仰を説く根本経典である浄土三部経中『無量寿経』によれば、過去久遠劫に錠光如来が世に現われたまい、無量の衆生を教化せられ涅槃に入られたが、この如来の時から52の如来が相次いで世に出現され、衆生を済度された。その後に、世自在王仏が世に出られた。この世自在王仏〈lokezvararaajatathaagata〉の時に、一人の国王があり、仏の教えを聞いて大菩提心を起こして、国家王位を捨てて出家して法蔵〈dharmaakara〉と名のられた。この菩薩が、世自在王仏のところで、210億の諸仏妙土の清浄の行を摂取して、四十八願をおこし、とくにその第十八願に「たとえ、われ仏となることをえば、十方の衆生よ、至心信楽して、わが国に生れんと欲して乃至十念せん、もし生れずば正覚をとらじ、唯だ五逆と正法を誹謗するものを除く」と誓われ、その願い成就して仏となり、現に西方の浄土にあって、衆生救済のわざをなしたもうというのである。
このようにして『無量寿経』で阿弥陀仏の成仏の因果とその仏の衆生を救済したまうことを説き、次に『観無量寿経』では、韋提希夫人が阿闍世太子にそむかれ苦しみ悩んでいるのを釈尊が救おうとして、阿弥陀仏の教えを説きそれによって韋提希が救われたことを説くとともに、その救いが無仏時代の衆生の救いであることを示している。さらに『阿弥陀経』では、その救いが称名念仏であることを説くのである。
このように『浄土三部経』には、阿弥陀仏の救いと、その救済の事実と、それの証明とが明かされているのである。
今日の浄土教は、この経典による阿弥陀仏信仰の伝統の中にあるわけであるが、大乗経典中、三分の一に阿弥陀仏が説かれ、密教においては大日如来の別徳として、阿弥陀仏が信仰され、これが密教経典に強調されるなど、阿弥陀仏信仰のいかに盛んであったかをしるのである。