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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

有無

 、有の立場と無の立場。「存在するもの・存在性」と「存在しないもの・非存在性」、また物事について存在すると判断主張する立場と、存在しないと判断主張する立場。あるいは、ある事についての肯定と否定。
 仏教において「有」「無」「有無」は、単に存在論・認識論上の問題としてだけではなく、倫理・宗教の問題としても多様な思索が展開されている。そして、人は「有」「無」いずれの判断主張にも固執すべきではないというのがその基調をなすといってよい。

初期仏教の説

 初期仏教において、「すべてのものは永久に存在する、絶対的に存在しない」というのは「有無の二見」あるいは「断常の二見」(断見常見)と呼ばれ、それぞれ「有無」「断常」に固執しているために、物事の真の姿を把握しえない、悟りを阻害するものとされている。またアビダルマ(阿毘達磨)仏教では、認識の対象になっているものはすべて実在するとする説一切有部、認識の対象になっているからといってものは必ずしも実在せず、相対的存在にすぎないと主張する経量部などがあり、「有無」について詳細な議論をなしている。

大乗仏教の説

 大乗仏教では、有にも執われず無にも執われない「非有非無」の縁起空性中道の思想を基本的には是認しながら、中観派はあくまで非有非無の空性を主張し続けた。
 これに対し瑜伽行派は、日常的な認識の構造に注目し、認識対象は外在的なものではなくの顕れにしかすぎない(唯識)ので「非有」、しかし識の顕れは現実に存在するので「非無」と分析し、それによって「有無」に執われない悟りへの実践が具体的に理論づけられるとした。このようにインド仏教では「有無」は矛盾的なものとして超越されるべきものと考えられている。
 なお、「非有非無」の中国語は僧肇の『肇論』(不真空論)に

万物は果して其の有ならざる所以あり、無ならざる所以あり、…故に有と雖も有に非ず…無と雖も無に非ず

と見え、『荘子』(則陽)

道は有りとすべからず、また無しとすべからず

に基づく。

中国仏教での展開

 中国仏教はインド仏教の歴史的展開のそれぞれの段階を受容しつつ、かつ独自の解釈と理論づけを行なった。インドにおいて「有」と「無」は矛盾概念としてはっきり意識されていたが、中国では初期の老荘思想がもつ万物の根源は「無」であるという考えに影響され、根源的な「無」を媒介として「有」と「無」は融合連結しているという理解を生む。換言すれば、「非有非無」なのは「根源的な無」であって、「有」「無」はその顕れとするものであり、それは「有」「無」が概念上の矛盾ではなく、心理上の緊張対立関係にあるとする。その意味で中国的な「有無」の解釈は、インドとは違う新たな思想の展開を示すものである。