ちゅうごくぶっきょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
中国仏教
中国と呼ばれる地域は、歴史上、地理的に一定しないので、確定的なことはいえないが、中国独特の仏教、もしくは漢訳仏典を使った仏教と特定して考える。
漢~西晉
初伝
前139年-前126年 張騫によって西域遠征が行われた。このころ貿易路も開かれて、仏教も中国へ伝えられたと考えられるが、この時代のその証拠となるものは何も残っていない。
元寿元年(前2年) 『魏略』の記述が文献上の最初の記録である。これは、前漢の哀帝の時、景盧が月氏の使者伊存から仏教経典の口授を受けたということである。
67年 後漢の明帝の時、使者を月氏に送り、仏像や経典とともに、迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧侶を連れ帰る。洛陽に白馬寺を建てて『四十二章経』を翻訳した。(現存せず)
147年-167年(桓帝の時代) 宮中で黄帝・老子・仏陀をまつる儀礼を行う。
訳経時代
148年 パルティア人の安世高が、洛陽で翻訳や著述をした。(現存せず)
桓帝末期 月氏の支婁迦讖が『般若経 』等の大乗経典を翻訳した。これが現存している漢訳経典の最古のものである。
月氏の帰化人の孫、支謙が六ヶ国語に通じて翻訳を行った。
この頃、黄巾の乱が起こり政情不穏。社会的には金色の仏像を礼拝したり、焼香や読経が流行る。
三国時代 康僧会が、呉で『六度集経』(ろくどじっきょう)を翻訳。これは釈迦の前生物語(ジャータカ)の一つである。
北魏の康僧鎧が『無量寿経 』を翻訳し、阿弥陀信仰を紹介した。
266年-308年 竺法護(じくほうご)が、洛陽で般若経、法華経、維摩経、無量寿経などを翻訳し教化した。重要な大乗経典はほぼこの頃に翻訳が終了した。
355年 慧遠が、道安の『般若経』を聴いて仏門に入る。
372年 チベット族の立てた前秦の苻堅が仏教を保護奨励し、僧侶と経典を高句麗に送る。
382年 苻堅はクチャを攻め、鳩摩羅什を客人として迎える。
401年 後秦の文桓帝、鳩摩羅什を長安に迎える。ここで35部3百巻の経論を訳出する。
402年 慧遠が江南の廬山に白蓮社を設立し、西方極楽往生を目指した。
412年 曇無讖北凉に来る。後に法顕とともに『涅槃経』を訳出。さらに菩薩地持経、仏所行讃を翻訳する。
414年 法顕(ほっけん)がインドから海路南京に帰る。
420年 仏陀跋陀羅(ぶっだばだら)南京で『華厳経』を訳出。
南北朝時代
後魏
444年・446年 二度にわたり僧侶を殺害し、仏像寺院を破壊。
452年-465年 文成帝の仏教復興。雲岡石窟、龍門石窟寺院の建立。
516年 胡太后が洛陽に永寧寺を造営。僧房1千以上という大寺院。
508年 インドから菩提流支(ぼだいるし)、勒那摩提(ろくなまだい)が洛陽に来る。
534年2月 永寧寺火災により焼失。
434年 建康の南林寺に戒壇を設立。3百名が具足戒を受けた。
499年 建康に扶桑国の僧慧深(えじん)が着く。日本人最初の僧侶か?
梁
502年 梁の武帝]]が倭王武に征東大将軍の称号を与える。
500年前後 中国全体の人口のほとんどが仏教徒であった。
466年-529年 光宅寺の法雲に武帝から大僧正が贈られる。
520年 達磨が広州に着く。
476年-542年 曇鸞が活躍。
548年 真諦(しんだい)が武帝の招待で建康に着いて謁見。
550年- 真諦、訳経開始。
557年-578年 北周の武帝、破仏の断行。
569年 智顗が瓦官寺で、法華経と智度論を貴族に講ずる。
585年 智顗、光宅寺に入る。
587年 智顗が、法華文句を著す。
隋代
595年 智顗が智度論などを参考に、大乗経典を五時八教に分類。(教相判釈)
549年-623年 吉蔵、鳩摩羅什訳の中論'百論'十二門論の三論によって三論宗を立てる。
年
年
年
この「ちゅうごくぶっきょう」は、書きかけです。 この記事を加筆・訂正などして下さる執筆協力者を求めています。提案やご意見はこのページのノートに書き込んで下さい。 |
中国仏教史典籍
中国仏教史に関する典籍をまとめておく。