「てん」の版間の差分
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+ | とり入ること。佞なり。口利口に云ひとること。〔四教儀註〕〔八宗綱要91〕 | ||
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+ | 小乗アピダルマでは心作用のうちの小煩悩地法の一つ。心の邪曲。 〔倶舎論〕 | ||
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+ | 唯識説においては、邪曲。心のねじけたこと(cetasaḥ kauṭilyaṃ, Sthiramatiの訳)。〔唯識三十頌 T31-60b〕〔成唯識論 T31-33b〕 | ||
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+ | 諂と云は人を蹣(くら)まし迷さん為に時に随ひ事に触れて奸(かたま)しく方便を回らし人の心を取り或は我過を蔵す心也、世の中に諂曲の者と云は此心増せる人也。 〔唯識大意〕 |
2022年1月31日 (月) 20:53時点における最新版
天
deva, sura (S)
devaは「提婆」と音写され、suraは「素羅」と音写される。いずれも、光明、清浄、自在、最勝などの意味であり、人間以上の勝妙の果報を受けたものであり、古くは部分がし須弥山の中に届いており、一端は遠く蒼空にあるとされ、総じて天趣と名づけられて六趣の一つに数えられている。
また、その住処にかかわらず一切の鬼神を指して「天」と名づけることがある。
すべての巧妙のものを「天」と呼ぶことがあり、たとえば人中の好華を天華と言うようなものである。
- 天とは、雑心に釈す如きは、光明有るが故に、これを名づけて天となす。これにあい随って釋す。またいわく天とは淨なるが故に天となす。 〔大乗義章〕
三種天
四種天
転
pra-vṛt- (skt; verb)
「はたらき」を現わすこと。(識が)はたらくこと。
纒・纏
paryavasthāna (S)
煩悩の別名の一つ。不善の心理状態が衆生にまつわりついて拘束し、生死輪廻からの解脱の障りとなるから、このようにいわれる。また「纒」は、随眠(anuśaya)が心の奥底に潜在的に存在する煩悩であるのに対して、実際の心理作用を伴って表面に現れる煩悩を指す。
八纒
無慚・無愧・嫉・慳・悔・眠・掉挙・惛沈の8種を「八纒」とする
十纒
諂
へつらう。
とり入ること。佞なり。口利口に云ひとること。〔四教儀註〕〔八宗綱要91〕
śāṭhya: māyā (S)
小乗アピダルマでは心作用のうちの小煩悩地法の一つ。心の邪曲。 〔倶舎論〕
śāṭhyaḥ (S)
唯識説においては、邪曲。心のねじけたこと(cetasaḥ kauṭilyaṃ, Sthiramatiの訳)。〔唯識三十頌 T31-60b〕〔成唯識論 T31-33b〕
諂と云は人を蹣(くら)まし迷さん為に時に随ひ事に触れて奸(かたま)しく方便を回らし人の心を取り或は我過を蔵す心也、世の中に諂曲の者と云は此心増せる人也。 〔唯識大意〕