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+ | インドの輪廻説がはっきりと文献に登場するのは、紀元前八世紀ごろ、後期ブラーフマナ文献と最初期のウパニシャッド文献においてである。その輪廻説は、「[[ごか|五火]]説」と「[[にどう|二道]]説」というかたちで現れる。'''輪廻'''(サンサーラ)ということばはまだ用いられていない。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』では五火二道説というかたちで不可分のものとして扱われている。<br> | ||
+ | 別の議論では、古『ウパニシャッド』時代(前500年ころ)になってはじめて、「輪廻」という言葉があらわれ、有情の輪廻の過程もほぼ定形的に語られるようになった。なかでも、この時期の哲人ヤージュニャヴァルキヤによって、 | ||
+ | : 善き業によって善く生まれ、悪しき業によって悪しく生まれる | ||
+ | という形で、輪廻説が業報説と結合して説かれるようになった。 | ||
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[[ぶっきょう|仏教]]では、さとることで、この輪廻から[[げだつ|解脱]]することができると考えた。 | [[ぶっきょう|仏教]]では、さとることで、この輪廻から[[げだつ|解脱]]することができると考えた。 | ||
− | : | + | : 有情は輪廻して六道に生じる。車輪のように始終回り続けるようなものである。 〔心持観経3〕 |
− | : | + | : 生死の凡夫は、罪障が深重であって、六道を輪廻する。 〔観念法門〕 |
− | :注 ちなみに「saṃsāra」は、「[[せかい|世界]]」「現世的生活・世俗的生活態度」「[[せけん|世間]] | + | :注 ちなみに「saṃsāra」は、「[[せかい|世界]]」「現世的生活・世俗的生活態度」「[[せけん|世間]]」などと理解される。<font color=RED>「輪廻」と理解する方が難しい。</font> |
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<big>saṃsāra</big> (S)<br> | <big>saṃsāra</big> (S)<br> | ||
− | + | どのような人間でも、死によっていっさいが消えてしまうという考えかたには、ほんとうはたえられない。著名な人でも、平素は死を客観的にみて、死をいっさいの消滅といいながら、いよいよ自己の死という段階になると、それをいろいろと解釈し、消滅する自分をとらまえようとする。<br> | |
− | + | しかし、これが人間の人間らしさでもある。まして、原始的な生活の中に生きる民族や、古代の人たちが再生――仏教でいえば[[てんしょう|転生]]〈jātiparivarta〉でもあろうが――を信じていたことは当然である。インドのように階級的身分の考えかたを人間本来のものとして、どうにもならないものと考えるところでは、この再生を標準として人間を区別し、奴隷を一生民族として、そこに種族の優越性を誇示することにもなる。<br> | |
このように、文明人であると原始人であるとを問わず、人間である限り、'''この世だけの生存と考えては、実際に生きる力をほんとうに感ずることができない'''。そこで、何らかの意味で自己の存続を願い、それを期待するのである。このような場合、人間が肉体にこれを期待することはできない。そこで霊魂とか「たましい」とかを精神的な実在として求め、そのようなものの存在を信じようとするのである。<br> | このように、文明人であると原始人であるとを問わず、人間である限り、'''この世だけの生存と考えては、実際に生きる力をほんとうに感ずることができない'''。そこで、何らかの意味で自己の存続を願い、それを期待するのである。このような場合、人間が肉体にこれを期待することはできない。そこで霊魂とか「たましい」とかを精神的な実在として求め、そのようなものの存在を信じようとするのである。<br> | ||
さて、この霊魂の実在を信ずるところから、逆に霊魂の宿るところとして肉体の意味を見出し、死後、ふたたび、「たましい」が帰ってくるところとして肉体を保存することを考えたのが、ミイラをつくった民族であった。実は、このような生存の存続という考えかたの中に、インドの輪廻観も根拠をもつのである。 | さて、この霊魂の実在を信ずるところから、逆に霊魂の宿るところとして肉体の意味を見出し、死後、ふたたび、「たましい」が帰ってくるところとして肉体を保存することを考えたのが、ミイラをつくった民族であった。実は、このような生存の存続という考えかたの中に、インドの輪廻観も根拠をもつのである。 | ||
===概説=== | ===概説=== | ||
− | + | 輪廻とは、生物が生死の過程を経ていろいろの世界を循環することが、ちょうど、車輪が廻転して窮りがないようであるということから名づけられたのである。サンスクリット語の「saṃsāra」とは「輾転すること」「移りかわること」の意味である。そこで、インドでは、そのような生物の移りゆく世界として六道を説く。すなわち、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上である。これらの世界は仏教ではすべて迷の世界、苦の世界であるとするので、これを六道輪廻とも生死輪廻ともいうのである。<br> | |
それではなぜ、このような世界に輪廻転生するのかというのに、それは、過去の善悪の業因が現在の善悪の業果となり、現在の善悪の業因が、また未来の善悪の業果となるという[[いんがおうほう|因果応報]]の理によるというのである。たとえば悪業によって地獄、餓鬼、畜生などの[[あくしゅ|悪趣]](悪道と同じで果報の悪の世界の意味)にゆき、[[ごかい|五戒]]を守って人間らしい生活を願うものは人間の世界に生じ、さらに善業によって天上界に生ずるというのである。しかし、その[[かほう|果報]]には業因の性質によって限界があるから、一定の期間をすぎれば、またその世界での業因によって別の世界へ転生する道理である。<br> | それではなぜ、このような世界に輪廻転生するのかというのに、それは、過去の善悪の業因が現在の善悪の業果となり、現在の善悪の業因が、また未来の善悪の業果となるという[[いんがおうほう|因果応報]]の理によるというのである。たとえば悪業によって地獄、餓鬼、畜生などの[[あくしゅ|悪趣]](悪道と同じで果報の悪の世界の意味)にゆき、[[ごかい|五戒]]を守って人間らしい生活を願うものは人間の世界に生じ、さらに善業によって天上界に生ずるというのである。しかし、その[[かほう|果報]]には業因の性質によって限界があるから、一定の期間をすぎれば、またその世界での業因によって別の世界へ転生する道理である。<br> | ||
− | + | そこで、このような輪廻の業因を断ち切って六道を離れ、苦の世界への転生をたち切ろうとする。そして悟りの世界に至ろうとして仏陀の教えにしたがって、迷苦の根本の煩悩を断じようと修行するのである。ところが、大乗仏教では単に自分だけで悟ったのは、真実の悟りではないとして、利他による自利の完成を強調する。すなわち、真実の悟りとは人々の救われることにおいてでなければならないというのである。<br> | |
− | + | このような人々の救われ悟ってゆく道で、自分も救われ、悟ることができるのであれば、人右を救い悟らしむることこそ自分の救いであるということになるであろう。このような点で、悟りの世界に安住するのでなく、迷いの世界にあって人々を悟らしむることこそ、自己の悟りの完成の道であるとして、生死輪廻にとらわれないこと――不住生死――涅槃にとらわれないこと――不住涅槃こそ、真実の悟りであるとして[[むじゅうしょねはん|無住処涅槃]]を主張し強調するのである。このような立場に立てば、具体的に地獄や餓鬼がどのようなものであるかを詮索する必要はないであろうが、古代の人は、そこに具体的な地獄の苦の世界の存在を信じ、犬や猫に人間が生まれかわると信じていたのである。 | |
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− | + | ===ごく初期のインドでの輪廻説=== | |
− | + | 現在の学界の定説では、輪廻説は、紀元前1500年前後以降数度にわたってインド・アーリヤ人が侵入してくる以前からインド亜大陸に住みついていた先住農耕民族‥‥とはいえ複数あり、特定はできないが、いつのころからか伝えてきたものがもとになっているとされている。 | |
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+ | 輪廻説というのは、「みずからがなした行いの報いは、かならずみずからが受ける」という、[[じごうじとく|自業自得]]を根幹とした[[いんがおうほう|因果応報]]の法則と、生きとし生けるものが今の境涯にあるのは、それぞれの前世の行いの報いである、あるいはまた、来世の境涯は、今生の行いによって決定されるという観念との、この2つによって成立している。<br> | ||
+ | 少なくとも、輪廻説が広くインド亜大陸に受け容れられた初期の時代には、自業自得はまさに文字どおりの意味に解されていた。みずからはこのようである、また、このようにありたいとの境涯を招くのは、運命や、超越的な神の意向などではないとされていた。<br> | ||
+ | つまり、みずからにかかわるいっさいのことがらは、みずからの責任の問題としてとらえられたのである。輪廻説は、生きとし生けるものそれぞれみずからの責任の所在を白日のもとにさらしたという点で、世界の思想史上ならぶもののない徹底した自己責任倫理、つまり、神にしろ世間にしろ、他者による信賞必罰に動機づけられた他律的なものではなく、あくまでもみずからのうちで完結する自律的な責任倫理をもたらしたといえる。<br> | ||
+ | 輪廻説というのは、原理的にはそれほどむずかしい説ではない。しかし、長い時代を経て、地域による変容をこうむった結果、本来の輪廻説では考えられないような通説、俗説に変容したのも事実である。たとえば、わが国でも、「親の因果が子に報い」という説とか、輪廻は、生きとし生けるもの、とりわけ人間が精神的に高度の成長を遂げるための絶妙のシステムであり、輪廻こそが人間の救いであるとかといった言い方が、広まっている。思想は生きものであって、時代と地域によって大きく変容するものであることはたしかであろう。しかし、あまりにも本来の意義から遠ざかったところで人びとの日常の思考と行動を、あまりよろしくないかたちで束縛するならば、本来の意義を明かすことが必要であろう。 | ||
===現代的意義=== | ===現代的意義=== | ||
しかし、今日では、これらをそのままに信ずることは科学的に不可能でもある。このような点で、地獄とは貪欲や瞋恚の中に自分で苦しんでいる姿、餓鬼とは「けちんぼ」の人が常に欲求不満に苦しんでいる姿、畜生とは人間が人間らしさを見失って、ただ肉欲の趣くままに動物的生活を送り、真実の安らぎをしらない姿、修羅とは争いを考え争いの中に生活する人なの姿などと説明される場合があってもよいであろう。ただ、思想のあらわれた時代の人々は、具体的な世界として考えていたのである。しかし、大乗仏教の立場では、別に具体的な世界として、これを考えなくてもよいわけである。 | しかし、今日では、これらをそのままに信ずることは科学的に不可能でもある。このような点で、地獄とは貪欲や瞋恚の中に自分で苦しんでいる姿、餓鬼とは「けちんぼ」の人が常に欲求不満に苦しんでいる姿、畜生とは人間が人間らしさを見失って、ただ肉欲の趣くままに動物的生活を送り、真実の安らぎをしらない姿、修羅とは争いを考え争いの中に生活する人なの姿などと説明される場合があってもよいであろう。ただ、思想のあらわれた時代の人々は、具体的な世界として考えていたのである。しかし、大乗仏教の立場では、別に具体的な世界として、これを考えなくてもよいわけである。 |
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輪廻
saṃsāra सँसार(S)
サンスクリットで「流れること」「転位」を意味し、生ある者が生死を繰り返すことを指すので、「生死」とも訳される。古くよりインドに広く伝わっている考えで、生ある者は迷いの世界である六道(もしくは五道)を輪廻しなければならないと考えられていた。この生まれかわる事から、輪廻転生という。
インドの輪廻説がはっきりと文献に登場するのは、紀元前八世紀ごろ、後期ブラーフマナ文献と最初期のウパニシャッド文献においてである。その輪廻説は、「五火説」と「二道説」というかたちで現れる。輪廻(サンサーラ)ということばはまだ用いられていない。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』では五火二道説というかたちで不可分のものとして扱われている。
別の議論では、古『ウパニシャッド』時代(前500年ころ)になってはじめて、「輪廻」という言葉があらわれ、有情の輪廻の過程もほぼ定形的に語られるようになった。なかでも、この時期の哲人ヤージュニャヴァルキヤによって、
- 善き業によって善く生まれ、悪しき業によって悪しく生まれる
という形で、輪廻説が業報説と結合して説かれるようになった。
仏教
仏教では、さとることで、この輪廻から解脱することができると考えた。
- 有情は輪廻して六道に生じる。車輪のように始終回り続けるようなものである。 〔心持観経3〕
- 生死の凡夫は、罪障が深重であって、六道を輪廻する。 〔観念法門〕
輪廻
saṃsāra (S)
どのような人間でも、死によっていっさいが消えてしまうという考えかたには、ほんとうはたえられない。著名な人でも、平素は死を客観的にみて、死をいっさいの消滅といいながら、いよいよ自己の死という段階になると、それをいろいろと解釈し、消滅する自分をとらまえようとする。
しかし、これが人間の人間らしさでもある。まして、原始的な生活の中に生きる民族や、古代の人たちが再生――仏教でいえば転生〈jātiparivarta〉でもあろうが――を信じていたことは当然である。インドのように階級的身分の考えかたを人間本来のものとして、どうにもならないものと考えるところでは、この再生を標準として人間を区別し、奴隷を一生民族として、そこに種族の優越性を誇示することにもなる。
このように、文明人であると原始人であるとを問わず、人間である限り、この世だけの生存と考えては、実際に生きる力をほんとうに感ずることができない。そこで、何らかの意味で自己の存続を願い、それを期待するのである。このような場合、人間が肉体にこれを期待することはできない。そこで霊魂とか「たましい」とかを精神的な実在として求め、そのようなものの存在を信じようとするのである。
さて、この霊魂の実在を信ずるところから、逆に霊魂の宿るところとして肉体の意味を見出し、死後、ふたたび、「たましい」が帰ってくるところとして肉体を保存することを考えたのが、ミイラをつくった民族であった。実は、このような生存の存続という考えかたの中に、インドの輪廻観も根拠をもつのである。
概説
輪廻とは、生物が生死の過程を経ていろいろの世界を循環することが、ちょうど、車輪が廻転して窮りがないようであるということから名づけられたのである。サンスクリット語の「saṃsāra」とは「輾転すること」「移りかわること」の意味である。そこで、インドでは、そのような生物の移りゆく世界として六道を説く。すなわち、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上である。これらの世界は仏教ではすべて迷の世界、苦の世界であるとするので、これを六道輪廻とも生死輪廻ともいうのである。
それではなぜ、このような世界に輪廻転生するのかというのに、それは、過去の善悪の業因が現在の善悪の業果となり、現在の善悪の業因が、また未来の善悪の業果となるという因果応報の理によるというのである。たとえば悪業によって地獄、餓鬼、畜生などの悪趣(悪道と同じで果報の悪の世界の意味)にゆき、五戒を守って人間らしい生活を願うものは人間の世界に生じ、さらに善業によって天上界に生ずるというのである。しかし、その果報には業因の性質によって限界があるから、一定の期間をすぎれば、またその世界での業因によって別の世界へ転生する道理である。
そこで、このような輪廻の業因を断ち切って六道を離れ、苦の世界への転生をたち切ろうとする。そして悟りの世界に至ろうとして仏陀の教えにしたがって、迷苦の根本の煩悩を断じようと修行するのである。ところが、大乗仏教では単に自分だけで悟ったのは、真実の悟りではないとして、利他による自利の完成を強調する。すなわち、真実の悟りとは人々の救われることにおいてでなければならないというのである。
このような人々の救われ悟ってゆく道で、自分も救われ、悟ることができるのであれば、人右を救い悟らしむることこそ自分の救いであるということになるであろう。このような点で、悟りの世界に安住するのでなく、迷いの世界にあって人々を悟らしむることこそ、自己の悟りの完成の道であるとして、生死輪廻にとらわれないこと――不住生死――涅槃にとらわれないこと――不住涅槃こそ、真実の悟りであるとして無住処涅槃を主張し強調するのである。このような立場に立てば、具体的に地獄や餓鬼がどのようなものであるかを詮索する必要はないであろうが、古代の人は、そこに具体的な地獄の苦の世界の存在を信じ、犬や猫に人間が生まれかわると信じていたのである。
ごく初期のインドでの輪廻説
現在の学界の定説では、輪廻説は、紀元前1500年前後以降数度にわたってインド・アーリヤ人が侵入してくる以前からインド亜大陸に住みついていた先住農耕民族‥‥とはいえ複数あり、特定はできないが、いつのころからか伝えてきたものがもとになっているとされている。
輪廻説というのは、「みずからがなした行いの報いは、かならずみずからが受ける」という、自業自得を根幹とした因果応報の法則と、生きとし生けるものが今の境涯にあるのは、それぞれの前世の行いの報いである、あるいはまた、来世の境涯は、今生の行いによって決定されるという観念との、この2つによって成立している。
少なくとも、輪廻説が広くインド亜大陸に受け容れられた初期の時代には、自業自得はまさに文字どおりの意味に解されていた。みずからはこのようである、また、このようにありたいとの境涯を招くのは、運命や、超越的な神の意向などではないとされていた。
つまり、みずからにかかわるいっさいのことがらは、みずからの責任の問題としてとらえられたのである。輪廻説は、生きとし生けるものそれぞれみずからの責任の所在を白日のもとにさらしたという点で、世界の思想史上ならぶもののない徹底した自己責任倫理、つまり、神にしろ世間にしろ、他者による信賞必罰に動機づけられた他律的なものではなく、あくまでもみずからのうちで完結する自律的な責任倫理をもたらしたといえる。
輪廻説というのは、原理的にはそれほどむずかしい説ではない。しかし、長い時代を経て、地域による変容をこうむった結果、本来の輪廻説では考えられないような通説、俗説に変容したのも事実である。たとえば、わが国でも、「親の因果が子に報い」という説とか、輪廻は、生きとし生けるもの、とりわけ人間が精神的に高度の成長を遂げるための絶妙のシステムであり、輪廻こそが人間の救いであるとかといった言い方が、広まっている。思想は生きものであって、時代と地域によって大きく変容するものであることはたしかであろう。しかし、あまりにも本来の意義から遠ざかったところで人びとの日常の思考と行動を、あまりよろしくないかたちで束縛するならば、本来の意義を明かすことが必要であろう。
現代的意義
しかし、今日では、これらをそのままに信ずることは科学的に不可能でもある。このような点で、地獄とは貪欲や瞋恚の中に自分で苦しんでいる姿、餓鬼とは「けちんぼ」の人が常に欲求不満に苦しんでいる姿、畜生とは人間が人間らしさを見失って、ただ肉欲の趣くままに動物的生活を送り、真実の安らぎをしらない姿、修羅とは争いを考え争いの中に生活する人なの姿などと説明される場合があってもよいであろう。ただ、思想のあらわれた時代の人々は、具体的な世界として考えていたのである。しかし、大乗仏教の立場では、別に具体的な世界として、これを考えなくてもよいわけである。