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+ | 単に「浄」と訳されることもある。<br> | ||
+ | 対応するサンスクリット語はśuddhi, viśuddhi, pariśuddhi, vyavadāna, parikarman, prabhāsvara, prasanna, śubhaなど多種にわたる。最も一般的なのはśuddhi, viśuddhi, pariśuddhiで、[[ねはん|涅槃]]の同義語ないしは、[[ほっしょう|法性]]・[[ほっしん|法身]]の清浄を表わすのに用いられている。vyavadānaは[[ぞうぜん|雑染]](saṃkleśa)に対する語で、浄化作用を意味する。parikarmanも、「仏国土を清浄ならしめんと欲する者は、自心の浄化(svacitta-parikarman)に努めるべし」〔[[ゆいまきょう|維摩経]]〕に見られるように、清浄化への努力を内包する語である。 | ||
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+ | 自性清浄心のように、主として心についていうときは、 prakṛtiprabhāsvaraṃ cittamというようにprabhāsvaraが用いられる。<br> | ||
+ | prasannaも心の澄浄を示すが、 prasādaとともに[[しん|信]](śraddhā)に近い概念をもっている。śubhaはaśubhaに対するもので『大乗涅槃経』では、[[じょう|常]]・楽・我・浄という[[にょらい|如来]]の四徳の一つとして説かれる。<br> | ||
+ | これらの清浄を表わす語はいずれも,特に[[にょらいぞう|如来蔵]]思想において重要な役割を担っている。 | ||
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+ | 清浄とは、一般に悪い行為による過誤や、[[ぼんのう|煩悩]]のけがれを離れた、清らかで純粋な状態と考えられるが、南方パーリ仏教の重要な論書である[[ブッダゴーサ]]の『[[しょうじょうどうろん|清浄道論]](Visuddhimagga)』によれば、戒の修習によって得られる境地を戒清浄、定の修習によって得られる境地を心清浄といい、さらにこの二清浄に、[[みょうしき|名色]]を如実に見る見清浄(diṭṭhivisuddhi)、名色の因縁を遍求し把握して過現未の三世に関する疑惑を越度する智を得る度疑清浄(kańkha-vitaraṇavisuddhi)、道と非道とを分別する智を得る道非道智見清浄(maggāmaggañaņadassanavisuddhi)、生滅随観智をはじめとして諦随順智へといたる九智を得る行道智見清浄(paṭipadāñāṇadassanavisuddhi)、預流・一来・不還・羅漢の四道における聖者の道智を得る智見清浄(ñāṇadassanavisuddhi)の五清浄を加えて、七種清浄としている。<br> | ||
+ | 五清浄のうちの、見清浄、度疑清浄、道非道智見清浄、行道智見清浄の四清浄は凡夫位に属し、智見清浄は聖位に属する。これらの五清浄は,戒定慧の[[さんがく|三学]]のうちの慧を明らかにする修習法であって、仏教真理観の中核を形成するものである。<br> | ||
+ | また、[[むしょう|無性]]の『摂大乗論釈』では、有漏道の修行によって、現在起こっている煩悩をしばらくのあいだおさえた状態である世間清浄と、無漏道の修行によって、現在起こっている煩悩を完全に断じつくした状態である出世間清浄との二種清浄をあげている。 | ||
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+ | [[せしん|世親]]の『[[じょうどろん|浄土論]]』では、環境が清らかなことを器世間清浄、そこに住んでいるものが清らかなことを衆生世間清浄といい、さらに、『[[しょうだいじょうろん|摂大乗論]]』には梁訳による自性清浄・離垢清浄・至得道清浄・道生境界清浄の四種清浄が説かれている。<br> | ||
+ | さらにまた、『[[くきょういちじょうほうしょうろん|究寛一乗宝性論]]』では、一切諸法は本来[[くう|空]]であるのだからもともと一切のものは清浄なものであるとする自性清浄と、修習により煩悩の垢を離れることによって清浄となる離垢清浄を説いている。 | ||
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+ | このほか、身の清らかなことを身清浄、心の清らかなことを心清浄と呼んだりもする。中国仏教においては、『[[だいじょうきしんろん|大乗起信論]]』の影響を受けて、特に[[じしょうしょうじょうしん|自性清浄心]]が問題とされることが多い。[[てんだい|天台]]でいえば、『大乗止観法門』における自性清浄心、[[けごん|華厳]]でいえば、『妄尽還源観』における自性清浄円明体などは、そのよい例である。 |
2018年1月9日 (火) 20:56時点における版
清浄
prasāda (S)
清く澄んでいること、顔容の光輝、心の平静などを意味する。澄浄、浄心、信、信心、浄信、深信、喜愛などとも訳す。
- 「清浄」とは、諸もろの煩悩の垢濁を離れるなり。有る人言わく、信解を名づけて清浄と為す、と。有る人言わく、堅固の信を名づけて清浄と為す、と。是の清浄の心は、仏法僧の(三)宝に於いて、苦集滅道の(四)諦に於いて、六波羅蜜に於いて、菩薩の十地に於いて、空・無相・無作の法に於いて、略して之れを言わば、一切の深経、諸もろの菩薩、及び其の所行の一切の仏法に、悉く皆な心に信清浄なるなり。 〔十住毘婆沙論〕
単に「浄」と訳されることもある。
対応するサンスクリット語はśuddhi, viśuddhi, pariśuddhi, vyavadāna, parikarman, prabhāsvara, prasanna, śubhaなど多種にわたる。最も一般的なのはśuddhi, viśuddhi, pariśuddhiで、涅槃の同義語ないしは、法性・法身の清浄を表わすのに用いられている。vyavadānaは雑染(saṃkleśa)に対する語で、浄化作用を意味する。parikarmanも、「仏国土を清浄ならしめんと欲する者は、自心の浄化(svacitta-parikarman)に努めるべし」〔維摩経〕に見られるように、清浄化への努力を内包する語である。
自性清浄心のように、主として心についていうときは、 prakṛtiprabhāsvaraṃ cittamというようにprabhāsvaraが用いられる。
prasannaも心の澄浄を示すが、 prasādaとともに信(śraddhā)に近い概念をもっている。śubhaはaśubhaに対するもので『大乗涅槃経』では、常・楽・我・浄という如来の四徳の一つとして説かれる。
これらの清浄を表わす語はいずれも,特に如来蔵思想において重要な役割を担っている。
清浄とは、一般に悪い行為による過誤や、煩悩のけがれを離れた、清らかで純粋な状態と考えられるが、南方パーリ仏教の重要な論書であるブッダゴーサの『清浄道論(Visuddhimagga)』によれば、戒の修習によって得られる境地を戒清浄、定の修習によって得られる境地を心清浄といい、さらにこの二清浄に、名色を如実に見る見清浄(diṭṭhivisuddhi)、名色の因縁を遍求し把握して過現未の三世に関する疑惑を越度する智を得る度疑清浄(kańkha-vitaraṇavisuddhi)、道と非道とを分別する智を得る道非道智見清浄(maggāmaggañaņadassanavisuddhi)、生滅随観智をはじめとして諦随順智へといたる九智を得る行道智見清浄(paṭipadāñāṇadassanavisuddhi)、預流・一来・不還・羅漢の四道における聖者の道智を得る智見清浄(ñāṇadassanavisuddhi)の五清浄を加えて、七種清浄としている。
五清浄のうちの、見清浄、度疑清浄、道非道智見清浄、行道智見清浄の四清浄は凡夫位に属し、智見清浄は聖位に属する。これらの五清浄は,戒定慧の三学のうちの慧を明らかにする修習法であって、仏教真理観の中核を形成するものである。
また、無性の『摂大乗論釈』では、有漏道の修行によって、現在起こっている煩悩をしばらくのあいだおさえた状態である世間清浄と、無漏道の修行によって、現在起こっている煩悩を完全に断じつくした状態である出世間清浄との二種清浄をあげている。
世親の『浄土論』では、環境が清らかなことを器世間清浄、そこに住んでいるものが清らかなことを衆生世間清浄といい、さらに、『摂大乗論』には梁訳による自性清浄・離垢清浄・至得道清浄・道生境界清浄の四種清浄が説かれている。
さらにまた、『究寛一乗宝性論』では、一切諸法は本来空であるのだからもともと一切のものは清浄なものであるとする自性清浄と、修習により煩悩の垢を離れることによって清浄となる離垢清浄を説いている。
このほか、身の清らかなことを身清浄、心の清らかなことを心清浄と呼んだりもする。中国仏教においては、『大乗起信論』の影響を受けて、特に自性清浄心が問題とされることが多い。天台でいえば、『大乗止観法門』における自性清浄心、華厳でいえば、『妄尽還源観』における自性清浄円明体などは、そのよい例である。