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平安時代の僧で、日本の[[てんだいしゅう|天台宗]]を開く。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。<br> | 平安時代の僧で、日本の[[てんだいしゅう|天台宗]]を開く。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。<br> | ||
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− | 19歳のとき( | + | 19歳のとき(延暦4年(785年))、[[とうだいじ|東大寺]]で[[ぐそくかい|具足戒]]を受ける。同年7月、比叡山に登り山林修行に入り、[[だいぞうきょう|大蔵経]]を読破。 |
− | + | 797年、内供奉(ないぐぶ)十禅師。<br> | |
− | + | 802年、高雄山寺(神護寺)'''法華会'''(ほっけえ)講師。'''入唐求法'''(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。<br> | |
− | + | 804年7月、通訳に門弟の義真を連れ、[[くうかい|空海]]とおなじく九州を出発。9月明州に到着。天台山に登り、湛然の弟子の道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)について天台教学を学ぶ。さらに道邃に大乗[[ぼさつかい|菩薩戒]]を受け、?然(しゅくねん)から禅、順暁(じゅんぎょう)から密教を相承する。<br> | |
− | + | 805年5月、遣唐使とともに帰国し、7月上京した。滞在中に書写した経典類は230部460巻。帰国当時、[[かんむてんのう|桓武天皇]]は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。<br> | |
− | 大同元年( | + | 大同元年(806年)1月、'''最澄'''の上表により、天台業2人([[しかん|止観]]業1人、遮那(しゃな)業1人)が[[ねんぶんどしゃ|年分度者]]となる。これは[[なんとろくしゅう|南都六宗]]に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。<br> |
このころ、'''空海'''から、[[しんごん|真言]]、[[しったん|悉曇]]([[ぼんじ|梵字]])、[[けごん|華厳]]の典籍を借り、研究する。<br> | このころ、'''空海'''から、[[しんごん|真言]]、[[しったん|悉曇]]([[ぼんじ|梵字]])、[[けごん|華厳]]の典籍を借り、研究する。<br> | ||
− | 弘仁3年( | + | 弘仁3年(812年)の冬、弟子の泰範、円澄、光定(こうじょう)らと高雄山寺におもむき、'''空海'''から[[かんじょう|灌頂]]を受ける。<br> |
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− | 会津の[[ほっそうしゅう|法相宗]]の学僧'''徳一'''(とくいち)との間に、'''三一権実'''(さんいちごんじつ)の論争。徳一が『''仏性抄'' 』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『''照権実鏡'' 』(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、[[ひえいざん|比叡山]]へ帰った後も続き、『''法華去惑'' 』(こわく)『''守護国界章'' 』『''決権実論'' 』『''法華秀句'' 』などを著し、徳一の主張をことごとく論破する。 | + | 会津の[[ほっそうしゅう|法相宗]]の学僧'''徳一'''(とくいち)との間に、'''三一権実'''(さんいちごんじつ)の論争。徳一が『''仏性抄'' 』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『''照権実鏡'' 』(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、[[ひえいざん|比叡山]]へ帰った後も続き、『''法華去惑'' 』(こわく)『''守護国界章'' 』『''決権実論''』『''法華秀句''』などを著し、徳一の主張をことごとく論破する。 |
− | + | 818年、みずから具足戒を破棄。『''山家学生式'' 』(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。<br> | |
南都の僧綱から反駁にこたえて『''顕戒論'' 』を執筆。『''内証仏法血脈譜'' 』を書いて正統性を説く。<br> | 南都の僧綱から反駁にこたえて『''顕戒論'' 』を執筆。『''内証仏法血脈譜'' 』を書いて正統性を説く。<br> | ||
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− | 貞観8年( | + | 貞観8年(866年)、'''伝教大師'''の諡号(しごう)が贈られた。 |
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最澄
さいちょう、神護景雲元年(767年)-弘仁13年(822年)
平安時代の僧で、日本の天台宗を開く。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。
12歳のとき近江国分寺に入り、行表(ぎょうひょう)の弟子となり、14歳のとき国分寺僧補欠として得度し名を最澄と改めた。
19歳のとき(延暦4年(785年))、東大寺で具足戒を受ける。同年7月、比叡山に登り山林修行に入り、大蔵経を読破。
797年、内供奉(ないぐぶ)十禅師。
802年、高雄山寺(神護寺)法華会(ほっけえ)講師。入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。
804年7月、通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発。9月明州に到着。天台山に登り、湛然の弟子の道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)について天台教学を学ぶ。さらに道邃に大乗菩薩戒を受け、?然(しゅくねん)から禅、順暁(じゅんぎょう)から密教を相承する。
805年5月、遣唐使とともに帰国し、7月上京した。滞在中に書写した経典類は230部460巻。帰国当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。
大同元年(806年)1月、最澄の上表により、天台業2人(止観業1人、遮那(しゃな)業1人)が年分度者となる。これは南都六宗に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。
このころ、空海から、真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借り、研究する。
弘仁3年(812年)の冬、弟子の泰範、円澄、光定(こうじょう)らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂を受ける。
813年、空海が最澄の懇請を拒絶、交情は悪化。
815年、和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。その後東国へ旅立つ。関東で鑑真ゆかりの上野の緑野(みとの)寺や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。
会津の法相宗の学僧徳一(とくいち)との間に、三一権実(さんいちごんじつ)の論争。徳一が『仏性抄 』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『照権実鏡 』(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、比叡山へ帰った後も続き、『法華去惑 』(こわく)『守護国界章 』『決権実論』『法華秀句』などを著し、徳一の主張をことごとく論破する。
818年、みずから具足戒を破棄。『山家学生式 』(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。
南都の僧綱から反駁にこたえて『顕戒論 』を執筆。『内証仏法血脈譜 』を書いて正統性を説く。
822年6月4日、比叡山の中道院で最澄没。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子の光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。
貞観8年(866年)、伝教大師の諡号(しごう)が贈られた。