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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(念と禅定)
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smRti (S) sati (P)
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<big>smṛti</big> (S) <big>sati</big> (P)
  
 心にとどめおくこと、あるいは、心にとどめおかれた状態としての記憶、心にとどめおいたことを呼びさます想起のはたらき、心にとどめおかせるはたらきとしての注意力を指す。[[げんしぶっきょう|原始仏教]]においては、念正知(satisampajaJJa)のかたちで多く用いられ、修行者は行住坐臥においてつねに注意深く正しく自覚しているべきことが説かれる。また[[しねんじょ|四念処]](cattAro satipaTThAna,心にとどめおいて観察すべき四つの対象、およびそれらによる修行法)としての用例も多い。そのほか、さとりへ導く徳目の一つとして、五根中の念根(satindriya)、五力中の念力(satibala)、 [[はっしょうどう|八正道]]中の正念(sammAsati)として説かれる。これらは四念処のことであると説明されることが多いが、念根、念力については、はるか以前になした行為をも記憶し想起しうる能力、として説明されることもある。<br>
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 心にとどめおくこと、あるいは、心にとどめおかれた状態としての記憶、心にとどめおいたことを呼びさます想起のはたらき、心にとどめおかせるはたらきとしての注意力を指す。[[げんしぶっきょう|原始仏教]]においては、念正知(satisampajañña)のかたちで多く用いられ、修行者は行住坐臥においてつねに注意深く正しく自覚しているべきことが説かれる。また[[しねんじょ|四念処]](cattāro satipaṭṭhāna,心にとどめおいて観察すべき四つの対象、およびそれらによる修行法)としての用例も多い。そのほか、さとりへ導く徳目の一つとして、五根中の念根(satindriya)、五力中の念力(satibala)、[[はっしょうどう|八正道]]中の正念(sammāsati)として説かれる。これらは四念処のことであると説明されることが多いが、念根、念力については、はるか以前になした行為をも記憶し想起しうる能力、として説明されることもある。<br>
 
 [[アビダルマ]]仏教においてはおもに[[しんじょ|心所]](心の属性)の一つとして考察され定義がなされた。南方上座部では、念は善浄心(不善心および五感による感受作用などにおいてはたらく心を除く一切の心)においてつねにともにある心所(共浄心所)の一つとされ、定義は対象において動揺しないことを特質とし、不忘失を作用とし、守護を現状とするとされた。説一切有部では、念は一切心においてつねにともにある心所(大地法)の一つとされ、対象を記憶し忘れないことと定義する。<br>
 
 [[アビダルマ]]仏教においてはおもに[[しんじょ|心所]](心の属性)の一つとして考察され定義がなされた。南方上座部では、念は善浄心(不善心および五感による感受作用などにおいてはたらく心を除く一切の心)においてつねにともにある心所(共浄心所)の一つとされ、定義は対象において動揺しないことを特質とし、不忘失を作用とし、守護を現状とするとされた。説一切有部では、念は一切心においてつねにともにある心所(大地法)の一つとされ、対象を記憶し忘れないことと定義する。<br>
 
 [[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]の[[ゆがぎょうは|瑜伽行派]]では、定義は[[せついっさいうぶ|説一切有部]]にひとしいが、未経験のことに対して念の生じることはないし、経験したことであっても記憶せず忘れている場合もあるとして、時と場合によって生じたり生じなかったりする心所(別境心所)のなかに含めた。
 
 [[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]の[[ゆがぎょうは|瑜伽行派]]では、定義は[[せついっさいうぶ|説一切有部]]にひとしいが、未経験のことに対して念の生じることはないし、経験したことであっても記憶せず忘れている場合もあるとして、時と場合によって生じたり生じなかったりする心所(別境心所)のなかに含めた。
  
 
==念と禅定==
 
==念と禅定==
 
 
 念には記憶したことを忘れないようにし、そのことを想起させて注意を他へそらさせないはたらきがあることから、精神の集中を必要とする禅定と深い関わりがある。このことは五根、五力や八正道のなかにおいて、念が定(samādhi,[[さんまい|三昧]])の直前に配置されていることからも知られる。<br>
 
 念には記憶したことを忘れないようにし、そのことを想起させて注意を他へそらさせないはたらきがあることから、精神の集中を必要とする禅定と深い関わりがある。このことは五根、五力や八正道のなかにおいて、念が定(samādhi,[[さんまい|三昧]])の直前に配置されていることからも知られる。<br>
 
 念を主体とした禅定の修習方法は六随念、十随念などの体系にまとめられた。随念(anussati)とは順次に想起する、反復して想起する、あれこれ想起する意である。以下に十随念を略述紹介する。
 
 念を主体とした禅定の修習方法は六随念、十随念などの体系にまとめられた。随念(anussati)とは順次に想起する、反復して想起する、あれこれ想起する意である。以下に十随念を略述紹介する。

2024年10月17日 (木) 16:53時点における版

anusmarananusmṛti

 心に銘記し忘れないこと。憶念、随念ともいい、常に心に念じたもつこと、追憶、追念などを意味する。

常に諸仏と及び  諸仏の大法と  必定と希有の行とをず  是の故に歓喜多し    〔十住毘婆沙論〕

 

「必定の諸菩薩を念ず」とは、若し菩薩阿耨多羅三藐三菩提を得て法位に入り無生法忍を得れば、千万億数の魔の軍衆も壊乱すること能わず、大悲心を得て大人法を成じ、身命を惜しまず菩提を得る為めに勤めて精進を行ず。是れを必定の菩薩を念ずと名づく。    〔〃〕

  →四念処

smṛti (S) sati (P)

 心にとどめおくこと、あるいは、心にとどめおかれた状態としての記憶、心にとどめおいたことを呼びさます想起のはたらき、心にとどめおかせるはたらきとしての注意力を指す。原始仏教においては、念正知(satisampajañña)のかたちで多く用いられ、修行者は行住坐臥においてつねに注意深く正しく自覚しているべきことが説かれる。また四念処(cattāro satipaṭṭhāna,心にとどめおいて観察すべき四つの対象、およびそれらによる修行法)としての用例も多い。そのほか、さとりへ導く徳目の一つとして、五根中の念根(satindriya)、五力中の念力(satibala)、八正道中の正念(sammāsati)として説かれる。これらは四念処のことであると説明されることが多いが、念根、念力については、はるか以前になした行為をも記憶し想起しうる能力、として説明されることもある。
 アビダルマ仏教においてはおもに心所(心の属性)の一つとして考察され定義がなされた。南方上座部では、念は善浄心(不善心および五感による感受作用などにおいてはたらく心を除く一切の心)においてつねにともにある心所(共浄心所)の一つとされ、定義は対象において動揺しないことを特質とし、不忘失を作用とし、守護を現状とするとされた。説一切有部では、念は一切心においてつねにともにある心所(大地法)の一つとされ、対象を記憶し忘れないことと定義する。
 大乗仏教瑜伽行派では、定義は説一切有部にひとしいが、未経験のことに対して念の生じることはないし、経験したことであっても記憶せず忘れている場合もあるとして、時と場合によって生じたり生じなかったりする心所(別境心所)のなかに含めた。

念と禅定

 念には記憶したことを忘れないようにし、そのことを想起させて注意を他へそらさせないはたらきがあることから、精神の集中を必要とする禅定と深い関わりがある。このことは五根、五力や八正道のなかにおいて、念が定(samādhi,三昧)の直前に配置されていることからも知られる。
 念を主体とした禅定の修習方法は六随念、十随念などの体系にまとめられた。随念(anussati)とは順次に想起する、反復して想起する、あれこれ想起する意である。以下に十随念を略述紹介する。

  1. 仏随念 仏のすぐれた徳性の数々を随念することによって心を浄く澄みわたらせる。
  2. 法随念 真理のすぐれた徳性の数々を随念することによって心を浄く澄みわたらせる。
  3. 僧随念 仏弟子の教団のすぐれた徳性の数々を随念することによって心を浄く澄みわたらせる。
  4. 戒随念 おのれにそなわった戒律のすぐれた徳性の数々を随念することによって心を浄く澄みわたらせる。
  5. 施随念 布施を喜ぶことのすぐれた徳性の数々を随念することによって心を浄く澄みわたらせる。
  6. 天随念 死後には生天の功徳をもたらすほどのなどの自分にそなわったすぐれた徳性の数々を随念することによって心を浄く澄みわたらせる。
  7. 寂静随念 涅槃のすぐれた徳性の数々を随念することによって心を浄く澄みわたらせる。
  8. 死念 死ののがれがたく、時や場所を選ばないことをたえず作意(manasikAra,心を向けること、考えること)し、あるいは実例を随念することによって負などの煩悩を離れる。
  9. 身念 身体を部分に分けて観察することから始め、厭うべきものとのみ作意しつづけることによって心の統一をはかる。
  10. 入出息念 呼吸の出入にのみ注意をはらうことによって心の統一をはかる。

 ところで、仏随念は後世の念仏の有力な起源と考えられている。漢訳仏典においては、さまざまな原語の翻訳に「念」が用いられているが、念仏との関係でいえば『無量寿経』における「十念(daśacittotpāda)」あるいは「乃至一念(ekacittotpādenApi)」が重要である。また、浄土経典のなかでは、作意が随念と同義で用いられることも指摘されている。しかし、念本来の語義からすれば、心を起こすことにしても心を向ける(作意)にしても、その行為が継続されることによってはじめて念との同義性を生じるというべきである。