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けごんきょうがく

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

華厳教学

 華厳宗の基本的・体系的な思想の総称で、それは根本において如来の海印三昧にうらづけられたものであるとされる。

法蔵の体系

 中国唐代の賢首大師法蔵(643-712)によって大成された。まず教判としては「五教十宗」が立てられる。

  1. 小乗教
  2. 大乗始教(本性が二乗である人は成仏しないと説く)
  3. 大乗終教(本性が二乗の人も一闡提も、ことごとく成仏すると説く)
  4. 頓教(段階的な修行をいわず、一念不生の境位がそのまま仏であるとする)
  5. 円教(一乗。一位が一切位であり、一切位が一位であり、の満ちたところが究極の仏のさとりである、などと説く)

以上の五教、および、

  1. 法我倶有宗(も我もともに実在すると説く)
  2. 法有我無宗(法の永遠の実在と無我を説く)
  3. 法無去来宗(現在のみの法の実在を主張する)
  4. 現通仮実宗(現在の法のなか五蘊は実在するが十二処・十八界は実在しないと説く)
  5. 俗妄真実宗(世俗の法は仮のもので、出世間の法が真実であるとする)
  6. 諸法但名宗(我も法も仮に名づけられたもので、すべて実体はないとする)
  7. 一切皆空宗(一切の法はみな本来であると説く)
  8. 真徳不空宗(一切の法は真如ないし如来蔵のはたらきとして現われるとする)
  9. 相想倶絶宗(ことばを離れた究極の境位を宣揚する)
  10. 円明具徳宗(法の無礙・自在のあり方を説く)

の十宗である。
 このうち、はじめに五教についていえば、1.には説一切有部などの部派仏教の思想、2.には三論宗の空の思想と法相宗の唯識の思想、3.には『起信論』や『楞伽経』の教説、および天台宗の思想、4.には『維摩経』の教説、5.には『華厳経』の教説、およびそれにもとづく華厳宗の思想、つまり華厳教学が配される。最後の5.が以下の四教を包み超える最高・究極の教えとしておかれていることはいうまでもない。
 また十宗のうち、1.は犢子部などの思想、2.は説一切有部などの思想、3.は大衆部などの思想、4.は説仮部などの思想、5.は説出世部などの思想、6.は一説部などの思想、7.は五教のうちの大乗始教、8.は終教、9.は頓教、10.は自宗の一乗別教をそれぞれ具体的には指している。この十宗の教判は、法相宗の基が立てた八宗の教判を摂取し改訂したものであり、このことからも法蔵が法相教学を強く意識しながら、自宗の教判的立場を確立したことが知られる。法蔵はこの五教十宗の教判によって、他宗・他学派の教学に対する華厳教学の絶対的優越性を主張したのである。
 この教判において第五教・第十宗に配される華厳教学の中心的な思想は何か。華厳教学の綱要書とも称される『五教章』に従えば、それは、A.三性同異義、B.縁起因門六義法、C.十玄縁起無擬法、D.六相円融義の四種となる。このうち、A.以外はすべて法蔵が師の智儼の思想を受けついで完成したものである。

智儼の体系

 A.は、法相宗を含む唯識系の諸派において説かれる①遍計所執性(分別性)、②依他起性(依他性)、③円成実性(真実性)の三性の教説をおもに『起信論』によりながら改革したもので、③に不変と随縁、②に似有と無性、①に情有と理無の二義を立て、三性が一面において同一であり、一面において相違すること、さらに「真は妄末を該ね、妄は真源に徹する」ことを明らかにする。
 次にB.は、仏教の基礎的教説の一つである因縁説(縁起説)を新しく展開したもので、『摂大乗論』の六種の一切種子の思想から一定の示唆を得、「因」の側面から縁起の事態がもつ限りない深さを捉えようとする思想である。六義とは、①空有力不待縁、②空有力待縁、③空無力待縁、④有有力不待縁、⑤有有力待縁、⑥有無力待縁である。
 次にC.は、究極の縁起のあり方、すなわち、一切の事物・現象は真実そのものの現われであり、相互に重重無尽に関わりあうというあり方(法界縁起)を総合的に明らかにしようとするものであり、①同時具足相応門、②一多相容不同門、③諸法相即自在門、④因陀羅網境界門、⑤微細相容安立門、⑥秘密隠顕倶成門、⑦諸蔵純雑具徳門、⑧十世隔法異成門、⑨唯心廻転善成門、⑩託事顕法生解門の十玄門によって示される。なお、『探玄記』の十玄門はその名称と順序がこれと同一ではない。特にそこで⑨が落とされ、代わりに広狭自在無擬門が入っていることは、法蔵がその円熟期において、如来蔵縁起説の立場を完全に離れようとしていたことを示唆するといえよう。
 第四のD.は、現象的な存在のもつ縁起性を対応する三種の見方、すなわち、総(全体性)と別(個別性)、同(同一性)と異(相違性)、成(生成性)と壊(破壊性)のすがた(相)において捉えるものである。この思想は、『十地経』に端を発し、慧遠・智儼を経て、法蔵によって大成される。『五教章』の「橡<たるき>と舎<いえ>」のたとえによってその要点を記せば、①全体として舎であることが総相、②橡などの部分が別々であることが別相、③それらが合体して舎を作りあげていることが同相、④しかしながら、同時にそれらがみな独自のすがたをもち、相互に区別があることが異相、⑤それらが舎を作りあげることが成相、⑥しかもそれらが根本において不作為であることが壊相である。最後に、以上の縁起の思想と深く関連するものとして「性起」の思想がある。これは、『華厳経』(六十華厳)如来性起品にもとづいて形成された思想であるが、原典からは大きく飛躍したものとなっており、性起は「真実そのものの生起」と解釈されて、縁起の真相を示すものとされる。ちなみに、智儼において、無心無為を説く曇遷の『亡是非論』が「性起に順ずる」として高く評価され、全文引用されていることは、思想史的にきわめて注目される。

歴史

 華厳宗は、初祖杜順(557-640)によって宗派的基盤が固められ、第二祖智儼によってその教学が基礎づけられた。そして、このうえに、法蔵によって上述のごとき教学が確立された。また、智儼の思想は、法蔵と同門の義湘(625-702)によって新羅に伝えられ、独自の新羅華厳教学が形成された。
 法蔵の門下からは、多くのすぐれた人材が巣立ったといわれるが、すでに彼らのなかに華厳教学の新しい動きが認められる。門下の一人である文超は「十観」を宣揚するなど、華厳教学のいわば主体化を強く志向し、同じく門下の慧苑はおもに『宝性論』にもとづいて①迷真異執教、②真一分半教、③真一分満教、④真如分満教の四教の教判を新たにうちだしている。この慧苑の教判をきびしく批判しつつ、荷沢禅や天台性悪説をとりいれ、実践面を強化するという方向において華厳教学を改革し、華厳宗の第四祖となったのが澄観(738-839)である。
 この傾向をさらに押し進め、明確な教禅一致論を主張したのが第五祖宗密(780-841)である。宗密は、『華厳経』よりもむしろ偽経の『円覚経』をよりどころとしているから、華厳教学はこの時点において一定の質的転換をはたした。この澄観・宗密の思想は、その後の華厳教学の性格をほとんど決定づけた。
 「中興の教主」と称される浄源(1011-88)をはじめ、のちの華厳宗の人びとは、『起信論』の一層の重視という一般的傾向を有しながらも、基本的にはほぼ彼らの教学の祖述に終始した。けれど、一方において華厳教学が、宋代以後、宗派的な枠を越えて禅者や念仏者に少なからざる影響を与え、彼らの融合的思惟を培っていった。たとえば宋代の本嵩は、杜順撰と伝えられる『法界観門』の三観(真空観・理事無礙観・周遍含容観)を禅の究極的世界を表わす。

日本の華厳教学

 日本に華厳教学が伝えられたのは、736年(天平8)7月、唐の道璿によってである。しかし、華厳教学の実際の伝播は、同年12月、法蔵に学んだ新羅の審祥が良弁の要請を受け、金鐘道場において『華厳経』の講義を行なったことに始まる。以来、東大寺を根本道場として、長く華厳教学の研究と宣揚がなされる。そして、華厳中興の祖と称された光智のもとから、華厳宗は東大寺系(本寺派)と高山寺系(末寺派)の2流に分かれ、しだいに特色ある伝統を作っていくが、鎌倉時代にいたって前者に凝然(1240-1321)が、また高弁(1173-1232)が出るに及び、それぞれの教学的立場が確立された。凝然の東大寺教学は、法蔵と澄観の教学に基礎をおくもので、日本華厳宗の正系とされた。一方高弁は、法蔵と同時代の孤高の華厳経研究者李通玄(635-730、あるいは646-740)の思想や密教思想の積極的な摂取を試み、仏光観の実践などの新しい方向を提示した。
 さらに江戸時代には、鳳潭(1657-1738)が出て澄観以来の華厳教学の伝統を批判し、智儼・法蔵の立場に帰るべきことを主張した。また普寂(1707-81)は、鳳潭の説をとりいれながら独特の同別2教論などを提唱した。けれども、彼らの近世的批判精神に立つ諸研究は、教学の主流からは非正統的なものとしてしりぞけられた。