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+ | また、[[じしょうしょうじょうしん|自性清浄心]]、[[ぶっしょう|仏性]]、[[ほっしん|法身]]、[[にょらいぞう|如来蔵]]、[[じっそう|実相]]、[[ほっかい|法界]]、[[ほっしょう|法性]]、[[えんじょうじつしょう|円成実性]]と同体異名であるとする。 | ||
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+ | 「[[しょぎょうむじょう|諸行無常]]」とか「[[しょほうむが|諸法無我]]」「[[いっさいかいく|一切皆苦]]」は、仏教のいう真理の内容であり、それらは「人生の真実の姿」を示すものである。これを「ありのままの姿」という意味で'''真如'''([[にょ|如]])と呼ぶが、大乗仏教ではその他に次のような語を同義語として用いる。 | ||
+ | # [[じっさい|実際]](bhūtakoṭi) 存在の極限、究極的な存在、存在の究極的姿 | ||
+ | # [[ほっしょう|法性]](dharmatā) 固有の性質、存在の本質 | ||
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+ | 「法界」は、もともと「法」という要素の意味で、意識の対象となるもの、したがって全存在を意味し、宇宙、世界とも同義である。大乗仏教では、この全存在を「法」すなわち「真理」の顕れとみて、これを'''真如'''の同義語に使う。さらに、この「法界」は真理そのものとしての仏陀、すなわち「法身」と同義である。<br> | ||
+ | これらの語の意味するところは、「[[えんぎ|縁起]]」「[[くう|空]]」であり、それは「[[ほう|法]]」(真理)に他ならない。 | ||
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+ | ===起信論=== | ||
+ | : 此の真如の体は、遣るべきものあることなし、一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。亦た立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。 | ||
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+ | : この真実のあり方という、言葉で表わされているそのものは、決して否定することのできないものである。すべての存在はみな真実であるからである。また、新たに説かなければならないようなものはない。すべての存在はみなそのようにしてあるからである。だから、すべての存在は、言葉で表現することも、心に思い浮かべることもできないものなのであるが、そういうあり方をかりに真実のあり方と呼ぶわけである | ||
===一真如=== | ===一真如=== | ||
− | ''[[だいじょうきしんろん|大乗起信論]]'' に、「真生未分の一心」とあり、一真法界には差別がないことを言う。 | + | ''[[だいじょうきしんろん|大乗起信論]]'' に、「真生未分の一心」とあり、一真法界には差別がないことを言う。<br> |
+ | 真如とは「ありのまま」という意味で、門とは入口のこと、理解の手段であり、心のありのままの相<すがた>を理解する手段が、心翼如門である。『義記』がこれを「約体絶相の義」といったのは真如は体はあるが、相を説くことはできないという意味であり、心の存在論的アプローチを示す。永遠の相においては、心の善悪・生滅・変化などはすべて消えてしまって、平等の実在のみが得られる。この一味の実在が真如である | ||
===二真如=== | ===二真如=== | ||
====随縁真如・不変真如==== | ====随縁真如・不変真如==== | ||
− | + | 無明の縁にしたがって九界の妄法を起すのを随縁真如といい、随縁して妄法となるがその真性は不変であるのを不変真如という。よって、随縁真如であるから真如即萬法であり、不変真如であるから萬法即真如である。これは華厳教の終教・天台教の別教以上でいうことである。 | |
====空真如・不空真如==== | ====空真如・不空真如==== | ||
− | + | 真如の究竟して染法を離れることが明鏡のようであるのを空真如といい、真如は一切の清浄法を備えているのが明鏡にすべての様相を写すようなことを不変真如という。これは''起信論''の説である。 | |
====清浄真如・染浄真如==== | ====清浄真如・染浄真如==== | ||
− | + | これは随縁真如・不変真如の異名である。 | |
====有垢真如・無垢真如==== | ====有垢真如・無垢真如==== | ||
− | [[しゅじょう|衆生]]が具えている真如を有垢真如といい、諸仏に顕されているものを無垢真如という。''大乗摩訶止観'' | + | [[しゅじょう|衆生]]が具えている真如を有垢真如といい、諸仏に顕されているものを無垢真如という。''大乗摩訶止観''に説かれている。これは、『起信論』には在纏真如・出纏真如と呼ばれている。 |
====生空真如・法空真如==== | ====生空真如・法空真如==== | ||
− | + | 人我の空を顕す真如を生空真如、法我の空を顕す真如を法空真如といい、『唯識論』に説かれる。 | |
====依言真如・離言真如==== | ====依言真如・離言真如==== | ||
− | + | 真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできないので、これを'''離言真如'''という。言葉を仮設することでその相を表すのを'''依言真如'''という。これは『起信論』の説。<br> | |
− | + | これを『華厳大疏鈔』では、'''相待真如'''、'''絶待真如'''と呼んでいる。 | |
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+ | 凡夫の心である衆生心の本質を「心真如」(心の真実の在り方)として示す。しかし「心が心を見る」という方法では心の真如の相は知られない。心が主観と客観に分裂しているのが凡夫の心であるが、それでは心の真相は知られない。心の「見られる部分」は判っても、「見る部分」は見られておらず、暗黒だからである。見られる心は、心のわずかな部分にすぎない。見えないで隠されている部分こそが重要である。この主観の隠された部分までも達観するところに、心真如の相が明らかになる。そのためには、心が主観と客観に分裂する状態を離れなければならない。<br> | ||
+ | 『起信論』では、心の分裂した状態を「念」「心念」「妄念」「分別」などの言葉で表現している。「念」には、一念すなわち一刹那の意味もあるが、この場合の念は'''分別'''の意味である。心の主客の分裂を絶して、心の全体が明るくなり、輝く状態が心真如の相である。このような心の状態は、体験によって知られるのみである。<br> | ||
+ | 主観に対する執著([[がしゅう|我執]])と客観界に対する執著([[ほうしゅう|法執]])とを離れる実践修行によってのみ実現する状態である。それが心真如である。心真如を実現した心は、佛陀の心である。しかし凡夫にもすでにこの心真如が具わっていると見るのが、『起信論』の立場である。それは、凡夫の心の奥から湧き出る力悟り(聖法)を実現する因(界)の働きをもっている。故に真如を「法の界」(聖法出生の因)ともいう。凡夫の心を、このような高貴なものとして受けとめる。<br> | ||
+ | この主客を絶した真如法界は、本来言葉で表現できないものである。体験の世界、悟るものである。その点を示すのが'''離言真如'''である。しかし言葉によらなければ真如を他人に伝えることはできないから、強いて言葉で説明したのが'''依言真如'''である。しかし離言真如といえども言葉で示すのであるから、広義の依言真如の中にある。 | ||
===三真如=== | ===三真如=== | ||
− | # | + | # '''無相真如''' 諸法の体に遍計所執がないことを言う。 |
− | # | + | # '''無生真如''' 諸法が因縁によって生じるから、実生はないことをいう。 |
− | # | + | # '''無性真如''' 諸法の真実の体は言葉も想念もないから、妄情所執の実性がないのを言う。<br>この三真如は''唯識論''に説かれる[[さんむしょう|三無性]]によっている。 |
− | # | + | # '''善法真如''' 真如が随縁して善法となることを言う。 |
− | # | + | # '''不善法真如''' 真如が縁にしたがって不善法になることを言う。 |
− | # | + | # '''無記法真如''' 同じく無記法となることを言う。<br>''雑集論''にある。 |
===七真如=== | ===七真如=== | ||
− | # | + | # '''流転真如''' [[ういほう|有為法]]が[[るてん|流転]]する実性を言う。縁起の理法を真如とする。 |
− | # | + | # '''実相真如''' 人法二[[むが|無我]]に顕れる実性を言う。諸法の空・無我を説くものだから、般若経典に続く。 |
− | # | + | # '''唯識真如'''・'''了別真如''' 染浄の法の[[ゆいしき|唯識]]の実性を言う。真如は所観だけでなく、能観の心のあり方にも関わる。この真如と心の関係の考察を推し進めて、如来蔵思想となる。 |
− | # | + | # '''安立真如''' [[くたい|苦諦]]の実性を言う。 |
− | # | + | # '''邪行真如''' [[じったい|集諦]]の実性を言う。 |
− | # | + | # '''清浄真如''' [[めったい|滅諦]]の実性を言う。 |
− | # | + | # '''正行真如''' [[どうたい|道諦]]の実性を言う。<br> |
− | + | 流転・安立・邪行の三真如は'''仏にはいわない'''。実相・唯識・清浄の三真如は[[こんぽんち|根本智]]の[[きょう|境]]であり、他の4は[[ごとくち|後得智]]の境である。 | |
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+ | =真如= | ||
+ | 俗名は高岳親王。平城天皇の第3皇子。 | ||
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+ | 嵯峨天皇の皇太子となったが、「薬子の変」によって廃されて、出家する。[[とうだいじ|東大寺]]で三論・法相を学び、空海に密教を承けて[[あじゃり|阿闍梨]]となった。[[しゅうえい|宗叡]]とともに入唐する。<br> | ||
+ | 仏蹟を拝せんとしてインドに向かったが、ラオス(羅越)で没したと思われている。 | ||
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+ | =真如= | ||
+ | (1682-144) 大谷派第17代。15代[[じょうにょ|常如]]の末子。童名は光養麿、諱は光性、愚海などと号した。院号は功徳聚院。<br> | ||
+ | 元禄13年(1700)に継職した。正徳元年(1711)、親鸞450回忌を勤修し、正徳5年(1715)、学寮に講師職を設置した。 |
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目次
真如
(しんにょ、bhūtatathatā (S))は、金剛経のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言うとされる。真理のことを指す。
また、自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性と同体異名であるとする。
「諸行無常」とか「諸法無我」「一切皆苦」は、仏教のいう真理の内容であり、それらは「人生の真実の姿」を示すものである。これを「ありのままの姿」という意味で真如(如)と呼ぶが、大乗仏教ではその他に次のような語を同義語として用いる。
- 実際(bhūtakoṭi) 存在の極限、究極的な存在、存在の究極的姿
- 法性(dharmatā) 固有の性質、存在の本質
- 諸法実相
- tattvaśya lakṣaṇaṃ 真実の姿
- dharmatā 法性
- 法界(dharma-dhātu) 存在の根元、真理の顕現
「法界」は、もともと「法」という要素の意味で、意識の対象となるもの、したがって全存在を意味し、宇宙、世界とも同義である。大乗仏教では、この全存在を「法」すなわち「真理」の顕れとみて、これを真如の同義語に使う。さらに、この「法界」は真理そのものとしての仏陀、すなわち「法身」と同義である。
これらの語の意味するところは、「縁起」「空」であり、それは「法」(真理)に他ならない。
起信論
- 此の真如の体は、遣るべきものあることなし、一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。亦た立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。
(現代文)
- この真実のあり方という、言葉で表わされているそのものは、決して否定することのできないものである。すべての存在はみな真実であるからである。また、新たに説かなければならないようなものはない。すべての存在はみなそのようにしてあるからである。だから、すべての存在は、言葉で表現することも、心に思い浮かべることもできないものなのであるが、そういうあり方をかりに真実のあり方と呼ぶわけである
一真如
大乗起信論 に、「真生未分の一心」とあり、一真法界には差別がないことを言う。
真如とは「ありのまま」という意味で、門とは入口のこと、理解の手段であり、心のありのままの相<すがた>を理解する手段が、心翼如門である。『義記』がこれを「約体絶相の義」といったのは真如は体はあるが、相を説くことはできないという意味であり、心の存在論的アプローチを示す。永遠の相においては、心の善悪・生滅・変化などはすべて消えてしまって、平等の実在のみが得られる。この一味の実在が真如である
二真如
随縁真如・不変真如
無明の縁にしたがって九界の妄法を起すのを随縁真如といい、随縁して妄法となるがその真性は不変であるのを不変真如という。よって、随縁真如であるから真如即萬法であり、不変真如であるから萬法即真如である。これは華厳教の終教・天台教の別教以上でいうことである。
空真如・不空真如
真如の究竟して染法を離れることが明鏡のようであるのを空真如といい、真如は一切の清浄法を備えているのが明鏡にすべての様相を写すようなことを不変真如という。これは起信論の説である。
清浄真如・染浄真如
これは随縁真如・不変真如の異名である。
有垢真如・無垢真如
衆生が具えている真如を有垢真如といい、諸仏に顕されているものを無垢真如という。大乗摩訶止観に説かれている。これは、『起信論』には在纏真如・出纏真如と呼ばれている。
生空真如・法空真如
人我の空を顕す真如を生空真如、法我の空を顕す真如を法空真如といい、『唯識論』に説かれる。
依言真如・離言真如
真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできないので、これを離言真如という。言葉を仮設することでその相を表すのを依言真如という。これは『起信論』の説。
これを『華厳大疏鈔』では、相待真如、絶待真如と呼んでいる。
凡夫の心である衆生心の本質を「心真如」(心の真実の在り方)として示す。しかし「心が心を見る」という方法では心の真如の相は知られない。心が主観と客観に分裂しているのが凡夫の心であるが、それでは心の真相は知られない。心の「見られる部分」は判っても、「見る部分」は見られておらず、暗黒だからである。見られる心は、心のわずかな部分にすぎない。見えないで隠されている部分こそが重要である。この主観の隠された部分までも達観するところに、心真如の相が明らかになる。そのためには、心が主観と客観に分裂する状態を離れなければならない。
『起信論』では、心の分裂した状態を「念」「心念」「妄念」「分別」などの言葉で表現している。「念」には、一念すなわち一刹那の意味もあるが、この場合の念は分別の意味である。心の主客の分裂を絶して、心の全体が明るくなり、輝く状態が心真如の相である。このような心の状態は、体験によって知られるのみである。
主観に対する執著(我執)と客観界に対する執著(法執)とを離れる実践修行によってのみ実現する状態である。それが心真如である。心真如を実現した心は、佛陀の心である。しかし凡夫にもすでにこの心真如が具わっていると見るのが、『起信論』の立場である。それは、凡夫の心の奥から湧き出る力悟り(聖法)を実現する因(界)の働きをもっている。故に真如を「法の界」(聖法出生の因)ともいう。凡夫の心を、このような高貴なものとして受けとめる。
この主客を絶した真如法界は、本来言葉で表現できないものである。体験の世界、悟るものである。その点を示すのが離言真如である。しかし言葉によらなければ真如を他人に伝えることはできないから、強いて言葉で説明したのが依言真如である。しかし離言真如といえども言葉で示すのであるから、広義の依言真如の中にある。
三真如
- 無相真如 諸法の体に遍計所執がないことを言う。
- 無生真如 諸法が因縁によって生じるから、実生はないことをいう。
- 無性真如 諸法の真実の体は言葉も想念もないから、妄情所執の実性がないのを言う。
この三真如は唯識論に説かれる三無性によっている。
- 善法真如 真如が随縁して善法となることを言う。
- 不善法真如 真如が縁にしたがって不善法になることを言う。
- 無記法真如 同じく無記法となることを言う。
雑集論にある。
七真如
- 流転真如 有為法が流転する実性を言う。縁起の理法を真如とする。
- 実相真如 人法二無我に顕れる実性を言う。諸法の空・無我を説くものだから、般若経典に続く。
- 唯識真如・了別真如 染浄の法の唯識の実性を言う。真如は所観だけでなく、能観の心のあり方にも関わる。この真如と心の関係の考察を推し進めて、如来蔵思想となる。
- 安立真如 苦諦の実性を言う。
- 邪行真如 集諦の実性を言う。
- 清浄真如 滅諦の実性を言う。
- 正行真如 道諦の実性を言う。
流転・安立・邪行の三真如は仏にはいわない。実相・唯識・清浄の三真如は根本智の境であり、他の4は後得智の境である。
真如
俗名は高岳親王。平城天皇の第3皇子。
嵯峨天皇の皇太子となったが、「薬子の変」によって廃されて、出家する。東大寺で三論・法相を学び、空海に密教を承けて阿闍梨となった。宗叡とともに入唐する。
仏蹟を拝せんとしてインドに向かったが、ラオス(羅越)で没したと思われている。
真如
(1682-144) 大谷派第17代。15代常如の末子。童名は光養麿、諱は光性、愚海などと号した。院号は功徳聚院。
元禄13年(1700)に継職した。正徳元年(1711)、親鸞450回忌を勤修し、正徳5年(1715)、学寮に講師職を設置した。