操作

「じょうどきょう」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(日本)
 
(同じ利用者による、間の3版が非表示)
3行目: 3行目:
  
 
===インド===
 
===インド===
 浄土教は『''[[むりょうじゅきょう|無量寿経]]'' 』『''[[かんむりょうじゅきょう|観無量寿経]]'' 』『''[[あみだきょう|阿弥陀経]]'' 』を根本経典とし、これを「[[じょうどさんぶきょう|浄土三部経]]」と呼ぶ。浄土教が成立したのは、インドにおいて[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]が興起した時代であり、およそ紀元100年頃に''無量寿経'' と''阿弥陀経'' が編纂されて始まる。時代の経過とともに浄土教はインドで広く展開した。<br>
+
 浄土教は『''[[むりょうじゅきょう|無量寿経]]''』『''[[かんむりょうじゅきょう|観無量寿経]]''』『''[[あみだきょう|阿弥陀経]]''』を根本経典とし、これを「[[じょうどさんぶきょう|浄土三部経]]」と呼ぶ。浄土教が成立したのは、インドにおいて[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]が興起した時代であり、およそ紀元100年頃に''無量寿経'' と''阿弥陀経'' が編纂されて始まる。時代の経過とともに浄土教はインドで広く展開した。<br>
 阿弥陀仏や極楽浄土に関説する大乗経論は非常に多く、浄土往生の思想を強調した論書としては、[[りゅうじゅ|龍樹]]([[150年]]-[[250年]]頃)作と伝える『''[[じゅうじゅうびばしゃろん|十住毘婆沙論]]'' 』(''毘婆沙論'')(易行品)、[[せしん|世親]](4-5世紀)の『''無量寿経優婆提舎願生偈'' 』(''[[じょうどろん|浄土論]]''、''[[おうじょうろん|往生論]]'')がある。''観無量寿経'' はインドで編纂されたと見ることが困難であり、おそらく4-5世紀頃中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定されるが、特に中国・日本の浄土教に大きな影響を与えた。
+
 阿弥陀仏や極楽浄土に関説する大乗経論は非常に多く、浄土往生の思想を強調した論書としては、[[りゅうじゅ|龍樹]]作と伝える『''[[じゅうじゅうびばしゃろん|十住毘婆沙論]]'' 』(''毘婆沙論'')(易行品)、[[せしん|世親]](4-5世紀)の『''無量寿経優婆提舎願生偈'' 』(''[[じょうどろん|浄土論]]''、''[[おうじょうろん|往生論]]'')がある。''観無量寿経'' はインドで編纂されたと見ることが困難であり、おそらく4-5世紀頃中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定されるが、特に中国・日本の浄土教に大きな影響を与えた。
  
 
===中国===
 
===中国===
 中国では2世紀後半から浄土教関係経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の[[えおん|慧遠]]([[334年]]-[[416年]])が''般舟三昧経'' にもとづいて白蓮社(びゃくれんしゃ)という念仏結社を作った。やがて浄土三部経を中心として[[どんらん|曇鸞]](476?-542?)が『''[[じょうどろんちゅう|浄土論註]]'' 』(''往生論註'' )、[[どうしゃく|道綽]](どうしゃく)([[562年]]-[[645年]])が『''[[あんらくしゅう|安楽集]]'' 』、[[ぜんどう|善導]]([[613年]]-[[681年]])が『''観無量寿経疏'' 』を著し、称名念仏を中心とする浄土教が確立された。のちに慧日([[680年]]-[[748年]])等が出て浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が助長された。
+
 中国では2世紀後半から浄土教関係経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の[[えおん|慧遠]]が''般舟三昧経'' にもとづいて白蓮社(びゃくれんしゃ)という念仏結社を作った。やがて浄土三部経を中心として[[どんらん|曇鸞]]が『''[[じょうどろんちゅう|浄土論註]]'' 』(''往生論註'' )、[[どうしゃく|道綽]]が『''[[あんらくしゅう|安楽集]]'' 』、[[ぜんどう|善導]]が『''観無量寿経疏'' 』を著し、称名念仏を中心とする浄土教が確立された。のちに慧日(680年-748年)等が出て浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が助長された。
  
 
===日本===
 
===日本===
 日本では7世紀前半に浄土教が伝えられたが、9世紀前半に円仁([[794年]]-[[864年]])が中国五台山の念仏三昧法を[[ひえいざん|比叡山]]に伝えた。やがて良源([[912年]]-[[985年]])が''極楽浄土九品往生義''、[[げんしん|源信]]([[942年]]-[[1017年]])が『''[[おうじょうようしゅう|往生要集]]'' 』を著して、天台浄土教が盛行するにいたった。良忍([[1072年]]-[[1132年]])は[[ゆうずうねんぶつしゅう|融通念仏宗]]の祖となった。天台以外でも[[さんろんしゅう|三論宗]]の永観(えいかん)([[1033年]]-[[1111年]])や真言宗の[[かくばん|覚鑁]](かくばん、[[1095年]]-[[1143年]])のような念仏者が輩出した。<br>
+
 日本では7世紀前半に浄土教が伝えられたが、9世紀前半に円仁(794年-864年)が中国五台山の念仏三昧法を[[ひえいざん|比叡山]]に伝えた。やがて良源(912年-985年)が''極楽浄土九品往生義''、[[げんしん|源信]]が『''[[おうじょうようしゅう|往生要集]]'' 』を著して、天台浄土教が盛行するにいたった。良忍(1072年-1132年)は[[ゆうずうねんぶつしゅう|融通念仏宗]]の祖となった。天台以外でも[[さんろんしゅう|三論宗]]の永観(えいかん)や真言宗の[[かくばん|覚鑁]]のような念仏者が輩出した。<br>
 平安末期から鎌倉時代に入ると、[[ほうねん|法然]]([[1133年]]-[[1212年]])が『''選択本願念仏集'' 』([[せんじゃくしゅう|選択集]])を著して[[じょうどしゅう|浄土宗]]を開創し、弟子の[[しんらん|親鸞]]([[1173年]]-[[1262年]])は『''教行信証'' 』等を著して浄土真宗の祖となり、[[いっぺん|一遍]]([[1239年]]-[[1289年]])は諸国を遊行して[[じしゅう|時宗]]を開いた。<br>
+
 平安末期から鎌倉時代に入ると、[[ほうねん|法然]]が『''選択本願念仏集'' 』([[せんじゃくしゅう|選択集]])を著して[[じょうどしゅう|浄土宗]]を開創し、弟子の[[しんらん|親鸞]]は『''教行信証'' 』等を著して浄土真宗の祖となり、[[いっぺん|一遍]]は諸国を遊行して[[じしゅう|時宗]]を開いた。<br>
 
 こうして次々と諸宗派が現れたが、後の宗派は前の宗派に対する反逆の意図を示していない。親鸞の著書に「浄土真宗」とあるのは、宗派としての浄土真宗のことではなくて、法然の浄土教のことである。これら浄土教各宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に及んでいる。
 
 こうして次々と諸宗派が現れたが、後の宗派は前の宗派に対する反逆の意図を示していない。親鸞の著書に「浄土真宗」とあるのは、宗派としての浄土真宗のことではなくて、法然の浄土教のことである。これら浄土教各宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に及んでいる。

2017年7月18日 (火) 13:48時点における最新版

浄土教

 阿弥陀仏の極楽浄土往生成仏することを説く教え。「浄土」という語は中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原型であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。しかし、中国・日本においては阿弥陀仏信仰の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の浄土をさす。唐代の善導が「念念に浄土教を聞かんことを思い」(法事讃 )という場合の「浄土教」がその意味である。浄土教は「浄土門」とも呼ばれ、日本では浄土宗浄土真宗という宗派ができた。

インド

 浄土教は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を根本経典とし、これを「浄土三部経」と呼ぶ。浄土教が成立したのは、インドにおいて大乗仏教が興起した時代であり、およそ紀元100年頃に無量寿経阿弥陀経 が編纂されて始まる。時代の経過とともに浄土教はインドで広く展開した。
 阿弥陀仏や極楽浄土に関説する大乗経論は非常に多く、浄土往生の思想を強調した論書としては、龍樹作と伝える『十住毘婆沙論 』(毘婆沙論)(易行品)、世親(4-5世紀)の『無量寿経優婆提舎願生偈 』(浄土論往生論)がある。観無量寿経 はインドで編纂されたと見ることが困難であり、おそらく4-5世紀頃中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定されるが、特に中国・日本の浄土教に大きな影響を与えた。

中国

 中国では2世紀後半から浄土教関係経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠般舟三昧経 にもとづいて白蓮社(びゃくれんしゃ)という念仏結社を作った。やがて浄土三部経を中心として曇鸞が『浄土論註 』(往生論註 )、道綽が『安楽集 』、善導が『観無量寿経疏 』を著し、称名念仏を中心とする浄土教が確立された。のちに慧日(680年-748年)等が出て浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が助長された。

日本

 日本では7世紀前半に浄土教が伝えられたが、9世紀前半に円仁(794年-864年)が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えた。やがて良源(912年-985年)が極楽浄土九品往生義源信が『往生要集 』を著して、天台浄土教が盛行するにいたった。良忍(1072年-1132年)は融通念仏宗の祖となった。天台以外でも三論宗の永観(えいかん)や真言宗の覚鑁のような念仏者が輩出した。
 平安末期から鎌倉時代に入ると、法然が『選択本願念仏集 』(選択集)を著して浄土宗を開創し、弟子の親鸞は『教行信証 』等を著して浄土真宗の祖となり、一遍は諸国を遊行して時宗を開いた。
 こうして次々と諸宗派が現れたが、後の宗派は前の宗派に対する反逆の意図を示していない。親鸞の著書に「浄土真宗」とあるのは、宗派としての浄土真宗のことではなくて、法然の浄土教のことである。これら浄土教各宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に及んでいる。