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+ | # '''常[[てんどう|顛倒]]''' [[むじょう|無常]]にしてうつろいゆくこの身体が永遠に存続するとみる見方である。必ず死ぬことは自明の理であり、肉体は滅び去ることも道理であるのに、己れの身に執着して、この身体は無常でなく、何時までも元気でおられるものだという錯覚におちこむことが常顛倒である。 | ||
+ | # '''[[らく|楽]]顛倒''' この苦にみたされた世の中を楽と見る見方である。人生は[[く|苦]]なり、人間生きる限り、生老病死の[[しく|四苦]]を離れることができないというのが仏教の基本的な考え方である。生きることも、老いゆくことも、病にかかることも、死ぬことも苦である現実を直視することなく、人生を楽とみる見方が楽顛倒である。 | ||
+ | # '''我顛倒''' [[むが|無我]]の身を[[が|我]]ありと執するあやまった見方である。無常であるものには、永遠に実体というものが存続するはずがない。すなわち[[じしょう|自性]]がないのだ。しかるに、自分自身は我という実体があると考えるのは、仏教の[[えんぎ|縁起]]や[[くう|空]]の教えを知らないからである。 | ||
+ | # '''浄顛倒''' 汚れた身を清浄なりと[[しゅう|執]]する見方である。人間の身体から漏れるものはすべてきたない。汚濁に満ち満ちている。鼻汁でも大便でも小便でも、愛液でもすべてきたないものである。だから、仏教では[[ぼんのう|煩悩]]のことを「[[ろ|漏]]」、すなわち漏れるものという。「[[うろ|有漏]]」というと煩悩のこと、「[[むろ|無漏]]」というと煩悩がなくなった清らかな状態をいう。浄顛倒とは人間の煩悩性を認めることなく、けがれた相に目をつぶり、人間を表面的に美しいものと見ることである。 |
2021年11月24日 (水) 11:23時点における最新版
四顛倒
viparyāsa (S)
顛倒とはさかさまの誤った考えで、生死の生存を常、楽、我、浄とみること。四倒ともいう。
- 常顛倒 無常にしてうつろいゆくこの身体が永遠に存続するとみる見方である。必ず死ぬことは自明の理であり、肉体は滅び去ることも道理であるのに、己れの身に執着して、この身体は無常でなく、何時までも元気でおられるものだという錯覚におちこむことが常顛倒である。
- 楽顛倒 この苦にみたされた世の中を楽と見る見方である。人生は苦なり、人間生きる限り、生老病死の四苦を離れることができないというのが仏教の基本的な考え方である。生きることも、老いゆくことも、病にかかることも、死ぬことも苦である現実を直視することなく、人生を楽とみる見方が楽顛倒である。
- 我顛倒 無我の身を我ありと執するあやまった見方である。無常であるものには、永遠に実体というものが存続するはずがない。すなわち自性がないのだ。しかるに、自分自身は我という実体があると考えるのは、仏教の縁起や空の教えを知らないからである。
- 浄顛倒 汚れた身を清浄なりと執する見方である。人間の身体から漏れるものはすべてきたない。汚濁に満ち満ちている。鼻汁でも大便でも小便でも、愛液でもすべてきたないものである。だから、仏教では煩悩のことを「漏」、すなわち漏れるものという。「有漏」というと煩悩のこと、「無漏」というと煩悩がなくなった清らかな状態をいう。浄顛倒とは人間の煩悩性を認めることなく、けがれた相に目をつぶり、人間を表面的に美しいものと見ることである。