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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(如去)
(如去)
 
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   それはなぜかというと、スブーティよ、如来と言われるものはどこにも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、〈如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である〉と言われるのだ。〔金剛般若波羅蜜経〕
 
   それはなぜかというと、スブーティよ、如来と言われるものはどこにも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、〈如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である〉と言われるのだ。〔金剛般若波羅蜜経〕
 
  tat kasya tathāgata iti Subhūti ucyate na kvacid gato na kutaścid āgataḥ. tenocyate tathāgato 'rhan samyaksaṃbuddha iti.
 
  tat kasya tathāgata iti Subhūti ucyate na kvacid gato na kutaścid āgataḥ. tenocyate tathāgato 'rhan samyaksaṃbuddha iti.
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===『無量寿経』梵本の註===
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 もとは原始仏教が起こった時代に、ジャイナ教その他諸宗教に共通の、すぐれた宗教家に対する呼称であったが、それを仏教がとり入れてブッダの呼び名とし
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たのである。<br>
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 原語の字義は「そのように行った人」で、インド一般に「完全な人格者」の呼び名であった。中国・日本の仏教では「そのように(thatā)(生けるものたちを救うために)来りし人(āgata)」と解し、救済者的性格を附与して「如来」と訳した。

2025年1月24日 (金) 14:01時点における最新版

如来

tathāgata तथागत (S)。「多陀阿伽陀」と音写。

 「tathāgata」は、「あのような(tathā)境涯(gati)に行きついた人」という意味で用いられており、インド古来から使われていた言葉だと考えられている。
 部派仏教では、「如」(tathā)を釈尊が説いた理法が真実であり、永遠に変わらぬものという意味で用いて、さらに「gata」を「去った」、もしくは「āgata」を「来た」の意味で用いて、「tathā + āgata」として「過去の仏と同じように来た」と教理的解釈を行って「如来」と漢訳している。
 この語は、大乗仏教に至っても同じように使われたが、「如」(tathā)の解釈が根本的に変わっていった。おそらく般若系経典の思想が反映され、「如」が相対的な差別相に対する分別やとらわれを超えた、般若波羅蜜によって体得された、一切の事象の真実の姿である実相を名づけて「如」「真如」と呼んで、そのような意味としてとらえている。さらに「如」は、諸法の本来的なあり方であるから、法性と等しいとされている。

 言に虚妄なきが故に如来と名づく〔『瑜伽』38、T30-499b〕
 諸の所言・所説・所宣の一切は如実にして皆な虚妄なきが故に如来と名づく。

述べられる言葉が如実であって虚妄ではないから如来というとの解釈もある。

 諸如来、略有十種功徳名号、随念功徳。何等為十。(中略)言無虚妄故、名如来。〔『瑜伽師地論』38、T30-499b〕

真身如来

「如」は「真如」。真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚を成ずるから「如来」と名づける。

 如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。  (成実論 1 )
 如実より来る。故に如来と名づく。‥‥涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。  (転法輪論)
 如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。  (智度論 24)

応身如来

真如の道に乗じ、三界に来たって化を垂れるゆえに「如来」と名づける。応身如来。

 如来というは如を体し、しこうして来たる。故に如来と名づく。
問うていう。如を体ししこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身なるや。来の義あるべし。真如法身、いかんが来あるや。
答えていう。本陰、今顕すが如く、また来と称するを得。  〔勝鬘宝窟上末〕

諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。

 つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第11願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。  (教行信証証巻 聖典註釈版 p.307)

如去

 サンスクリット語で「sūgata」(修伽陀)を「如去(にょこ)」あるいは「好去(こうこ)」と漢訳する。これは如実に生死を去るという意味。これによって、如来と如去は相対して、如去は向上自利であり、如来は向下利他である。この二つの言葉で仏の無住処涅槃を顕す。

 如來とは、
① 如の名は實と爲し、來の名は至ると爲す。眞實の中に至るが故に名づけて如來と爲す。何等を眞實と爲すや。所謂涅槃なり。不虚誑の故に是れを名づけて如實とす。經中に説くが如し。佛比丘に告げて、第一聖諦に虚誑有ること無し、涅槃が是れ也。
② 復次に如は不壞相に名づく。所謂、諸法實相が是れなり。來は智慧に名づく。實相の中に到りて其の義に通達するが故に名づけて如來と爲す。
③ 復次に無相無作に名づけて如と爲し、諸佛の來りて三解脱門に至る。亦衆生をして此門に到ら令めるが故に、名づけて如來と爲す。
④ 復次に如とは四諦に名づく。一切の種を以って四諦を見るが故に名づけて如來と爲す。
⑤ 復次に如とは六波羅蜜を名づく。所謂布施・持戒・忍辱・精進・禪定・智慧なり。是の六法を以って來り佛地に至るが故に名づけて如來と爲す。
⑥ 復次に諦捨滅慧の四功徳處を名づけて如來と爲す。是の四法を以って來りて佛地に至るが故に名づけて如來と爲す。
⑦ 復次に一切の佛の法に名づけて如と爲す。是の如來、諸佛に至るが故に名づけて如來と爲す。
⑧ 復次に一切の菩薩地は喜・淨・明・炎・難勝・現前・深遠・不動・善慧・法雲にして名づけて如と爲す。諸の菩薩は是の十地を以って來りて阿耨多羅三藐三菩提に至るが故に名づけて如來と爲す。
⑨ 又、如實の八聖道分を以って來るが故に名づけて如來と爲す。
⑩ 復次に權智の二足によって來りて佛に至るが故に名づけて如來と爲す。
⑪ 如去は不還の故に名づけて如來と爲す。    〔毘婆沙論 T26-25a〕

 この中で、①~⑩は如来の意味であり、⑪が如去となる。

 それはなぜかというと、スブーティよ、如来と言われるものはどこにも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、〈如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である〉と言われるのだ。〔金剛般若波羅蜜経〕
tat kasya tathāgata iti Subhūti ucyate na kvacid gato na kutaścid āgataḥ. tenocyate tathāgato 'rhan samyaksaṃbuddha iti.

『無量寿経』梵本の註

 もとは原始仏教が起こった時代に、ジャイナ教その他諸宗教に共通の、すぐれた宗教家に対する呼称であったが、それを仏教がとり入れてブッダの呼び名とし たのである。
 原語の字義は「そのように行った人」で、インド一般に「完全な人格者」の呼び名であった。中国・日本の仏教では「そのように(thatā)(生けるものたちを救うために)来りし人(āgata)」と解し、救済者的性格を附与して「如来」と訳した。