そくしんじょうぶつ
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
即身成仏
密教の宗教理想で、現在生きている間に、生きているこの身に即して成仏の境地に到達しようとすること,あるいはそれが可能である、とすること。
仏教の宗教理想は、出家し、一生の間梵行(brahmacaryaa、性的貞潔を保つこと)を堅持することによって輪廻としてのこの世界から解脱し涅槃(nirvaaNa)に帰滅することであった。しかし、この厳格な出家主義・禁欲主義は大多数の民衆の堪えるところでなく、やがて何らかの意味で人間の現世的生を肯定しようとする大乗仏教運動が興った。大乗の徒は仏の過去の永い輪廻の生はその成仏にとって必須のものであったと解釈し、自らも涅槃ではなく成仏の境地を宗教理想とし、その長遠な理想に向けて現在の生を規整するなら、やがてその成仏の境地に到達できるものと考え、三劫(さんごう)にわたる智慧の練磨と慈悲の利他行・菩薩行の蓄積(福徳・智慧の二資糧の積集(しゃくじゅう))という大乗の理念を形成した。
密教と即身成仏
しかし、やがて仏教が退潮に向かい、三劫という長い時間の観念に堪えられなくなった人々は、本来の「現在生間」という時間観念に導かれ、かつ、それが成仏でなく涅槃に向かうものであるという点は忘却して、その時間内に成仏に到る方途を模索した。そしてそれは金剛頂経において、大乗の三劫に菩提心(悟り・成仏を求める心)を浄める過程を、「私は菩提心を浄めよう(浄菩提心を発そう)」という発菩提心真言を誦するという象徴行為によって代替するという構想において提示され、ここに純然たる密教は成立した。
この即身成仏の構想の成否は、大乗の他者に対する直接的利他行が、本来真言という象徴によって代替し得るか否かに存するのであるが、インドには現に真言にそのような権能を認める考えがあるのであり、したがってこの構想の結果的な成否は密教思想史の帰趨によって判定される以外にはないことになった。その後の密教の展開は、一生を目処としたピータ(piiTha 聖地)巡礼という行法に帰結し、ここに密教徒は自らの意識を超えたかたちで仏の本来の原則に復帰したことにより、その即身成仏の構想の不成立を示すことになったのである。
日本での展開
わが国では、即身成仏思想に基づいて、断食によって死に、身体をミイラ化して、それを生き仏として拝むということが、平安時代以来、特殊な宗教者の間で行われた。修験道では、出羽の三山のうちで、湯殿山は修行成就即身成仏証得の山であり、修験道極意の本山であると考えられた。当地では、真言行者が生前に自らの意志で断食を行い、自然死した後にミイラとなったのを「即身仏」として拝まれている。ミイラとなった即身仏崇拝は中国から台湾にも伝えられている。
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