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しん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2009年7月31日 (金) 12:19時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 ()

「こころ」とも訓じられる。(citta चित्त、hRdaya हृदय (skt.))
「心」と漢訳された原語には多くがあり、「心(citta)」「(manas)」「(vijJaana, vijJapti)」などが挙げられ、同義異名であるとされる。

citta

種々の(citra)対象を認識するから、集める(cinoti)から、と語源的に解釈される。
前者の場合は六識を、後者の場合、特に唯識派のいう阿頼耶識を意味する。これは、過去の経験を集め貯蔵しているからで、それが未来の諸法を起こしていくところから「集起心」といわれたりする。

manas

思慮する働きであり、「思量心」といわれる。唯識派では「末那識」を指す。

vijJaana,vijJapti

了別」と訳されるもので、認知する働きのことである。「了別心」「縁慮心(えんりょしん)」「慮知心(りょちしん)」といわれる。唯識派では第六識の意識をいう。

hRdaya

もともとは心臓を意味し、この意の心を肉団心と言い、通常は肉体の心臓部分を指す。また中心・心髄の意味も持っている。『般若心経』の「心」はhRdayaであり、核心・心髄の意味である。

その他の心

心を構成する重要な要素である感情や意志は、人間存在を五蘊ではその中のに当たり、後世、心所の中に分析されている。

信心信解などに詳しい。

 「zraddhaa」の訳。十地法では「浄信」(prasaada)、「勝解」(adhimukti)、「信解」(avakalpanaa)を掲げているが、『十住毘婆沙論』ではにまとめられている。