あくけん

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悪見

dṛṣṭi (S)

 仏教で説く種々の煩悩の中で、その最も根本的なものとして六種の煩悩をあげ、これを六大煩悩、根本煩悩、根本随眠などとよんでいる。貪欲瞋恚愚痴憍慢悪見である。この中、最後の悪見は、他の五種の煩悩が主として人間の感情的なものに関係するのに対して、知性的な煩悩と考えられる。その点で、この悪見を見随眠とか見濁とかよぶ。
 すなわち、諸の諦理〈たいり〉において顛倒推度する染慧を性とするといわれるように、これは諸法の真理に対して、それを誤って考える人間の執着によるものである。そこで、この煩悩は「理に違するもの」であるといわれる。したがって、この悪見は働きのうえで非常に鋭利であり、それによって有情の心神を駆使するので、これを五利使ともいう。

五悪見

 さて、この悪見について、これを五種に開く。身見(=有身見)、辺見邪見見取見戒禁取見である。

身見

 身見〈sat-kaya-dṛṣṭi〉、壊身見、虚偽身見、有身見、移転身見などともいわれるが、それは人間が、それぞれ自らの中心となって常住普遍的な実体として自らを支配するような我を持っているという執見をいう。自分はいつでも自分であると自分に執らわれる考えをいうのである。この意味で有身見は我見と同じであるが、この中には我所の見といわれるように、自らの所有、自らの環境の中で、これは自分のものであると所有にとらわれる執見をも含めて考えるのである。
 したがって、身見は我々所の見をいう。このように自分は生まれてから死ぬまで自分であり、そこに何か自分という中核があって、それは変化しないという考え方と、その自分の中核的なものが自己の環境に対して自らの所有であると常に執着を起こす、このようなものを有身見というのである。
 ところで、このように自分は常に自分であるとする考えは、人間にとって大切なものであり、そこに個人が成立するのであるが、他面、もし、この自分にとらわれるならば、かえって自らの本来の相(すがた)を見失うことになって、人間の禍患となることを知らねばならない。
 自分を自分としてほんとうに自覚することのできるのは、単に自らとして独立して考えられるものではなく、常に他との関係の中にあってである。すなわち、自分が自分でありうるのは、他との関係をもつことにおいてである。いねば、自他の区別は関係の中で、初めて成立するというものである。
 人間は独立者として相互に存在し、よりあって社会を構成しているとする考えは、今日一般的な個人の考え方であるが、仏教では個人がほんとうに個人でありうるのは、社会の中にあってこそであるというのである。人間一般というようなものがあって、人間は人間であって動物でないとするのは誤りである。人間は人間らしく生きてこそ人間といわれるのである。

辺見

 辺見〈anta-grāha-dṛṣṭi〉、一辺にとらわれた考え方をいう。もっとも一般的には断常二見をさしている。すなわち、人間は死によって無に帰すとするのは断見、何かが残って続いてゆくとするのは常見である。このような一方的な考え方を辺見という。
 ところで、これをもう少し詳しくいうならば、色受想行識という五つの要素(五蘊)によって成立している人間が、自らに対して常住普遍的支配的である我を執じ、さらに、その我執によって五蘊それぞれに我を執ずる。そのように執着された五取蘊について断無と執じ、常有と執ずることをいうのである。その点で執辺見とよばれることもある。
 このような辺見をみれば、仏教は霊魂を立てないといういい方の間違いであることに気付くであろう。仏教は霊魂を論じないのである。ところで、この辺見の意味をさらに広げて考える考え方がある。それは、この辺ということについて、第一に辺側の意味とみる。その点で辺見とは辺側の見で不断不常の中道に違するものをいうとする。
 次に第二は辺は辺鄙の意味で、それは勝れている正見に対して、それに違するつまらない考えという意味である。さらに辺は後辺の意味であるという。それは我見の後に起こって我の断常を執ずるものをいうといわれている。いずれにしても、広く一方的にかたよった考え方をいうのである。しかも、それの根底には我見を考えていわれるのである。

邪見

 邪見〈mithyā-dṛṣṭi〉 これは一般的に間違った考え方であるが、ここでは、このような一般的なことばを特別なことばとして意味を付与しているのである。いわゆる総名を別名とするといわれるが、悪見は邪見であるから身見と辺見も邪見であるのに、ことさらに一般名をここに特殊なものの名としたのは、この邪見の内容とされる因果否定の考え方は、とくに仏教では重大な過失とするものであることを示しているのである。
 したがって、この邪見こそ仏教にとって根本的な誤りである。古来、邪見とは「因果を撥無する考え方」といわれる。撥無とは否定し容認しないことをいう。仏教教義の根本は因果の正しい理を説き、その正しい因果の理を自覚自行するところにある。善因楽果、悪因苦果は仏教の根本である。この根本である因果の理を認めないで、それを否定し、偶然論を唱えるならば仏教の教えの組織は全く破壊されることになるから、邪見である。これと同時に、それは単に仏教の成立基盤を破壊するだけでなく、それこそ正しい人間の実践を破壊してしまうとするのである。
 このような因果の道理を破壊するという因果否定の立場は、当然、それの実践の中で、損減の過失を犯さしめるものであるが、その為に遂に増益の失を招くことにもなるというので、広く因果の否定から生ずるいろいろな間違った考えをも邪見というのである。

見取見

 見取見〈dṛṣṭi-parāmarśa〉、持勝見ともいう。間違った考え方を誤って勝れた考え方であると、それに執着する考え方をいうのである。具体的には前の有身見、辺見、邪見の三見が、見取見の初めの見で、このような間違った考え方を、勝れたものとし、正しいものとして、それに執(とら)われたのが取、さらにその執われからすべてのものを誤ってみてしまうのが最後の見の字である。すなわち、身見辺見邪見を勝れた正しいものと考える執見ということである。

戒禁取見(かいごんじゅけん)

 戒禁取見〈śīla-vrata-parāmarśa〉 これは戒禁〈かいごん〉されたものを勝れた正しいものと誤って執着する考え方である。これに非因計因非道計道との二を立てる。すなわち、実際に因果の正しい立場に立てば因とならないものを因と誤って考え、それを勝れたものと執ずる見である。仏教の正しい菩提(さとり)に対して、それを達成する正しい因をとらず、間違った因を正しいものと誤って執着するようなものである。
 非道計道とは涅槃の道に非ざるものを涅槃の道と間違え、それを正しく勝れたものと誤って執着することである。このことは一般に注意すべきことで、ある立場の実現には、それを達成する正しい方法があるはずである。また、この立場に基礎付けられた正しい方法によってこそ、その立場は実現されるのである。
 自らの目的の達成は目的を達成する正しい方法の自覚自行によるので、立場と方法、思想と実践とが別々であっては、何も成功しない。悪見の中に、戒禁取見を説くのは、仏教の正しい因果論をふまえての説であることに注意しなければならない。

浄土教の悪見

 さて、以上の悪見を煩悩の中の知性的なものの根本とするのであるが、悪見ということばについて、浄土教ではこれと異なった意味を付与して、これを用いている。
 浄土教関係では「自力疑心」のことを悪見とよんでいる。善導は『散善義』の中で二河譬を説き、

或は行くこと一分二分するに群賊ら喚び廻(かえ)すとは、即ち、別解別行悪見の人等、妄に見解をもって互いに相い惑乱し、及び自ら罪を造って退失すと喩るなり

といっているし、親鸞は『愚禿鈔』下にいまの二河譬の文の悪見人を解釈して

悪見人等と言うは、憍慢、懈怠、邪見、疑心の人なり

といっている。
 すなわち、悪見人とはまず第一に憍慢の人をいう。一般に憍慢とは自らを高しとし、他を賤しめることであるが、ここでは、己心に仏性ありと執じ、自らを高しとの執見をもつもの、さらに要門や真門の人、すなわち第十九願の人、第二十願の人のように、定善散善の観法にとらわれ、それを恃み、また、名号を称えてと称功を募る人々の心をさして憍慢人といったと注釈される。
 次に懈怠とは相続して仏恩を念報しないことをいうとするので、これは仏恩報謝の相続しない人の心に名づけるのである。
 次に邪見とは正見に違することといわれるが、それは阿弥陀仏の救済の正しい相を知らず、自力の執心をもつことである。疑心とは仏の本願に対する疑いをいうのである。
 このように浄土教、ことに真宗の教えの場合には悪見は自力執心よりする誤った考え方をいうものであり、一般的にいわれる悪見とは異なって解釈されるのである。しかし、その根底には我我所の見があって、そのために自力の執心、が起こり、疑心もあらわれるのであり、その点、仏教では悪見の根底に常に我我所の見を考えていることはいうまでもない。(煩悩の項参照)