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また仏を[[びょうどうかく|平等覚]]、[[じしょうほっしん|自性法身]]を[[びょうどうほっしん|平等法身]]、[[いちじょう|一乗]]の法のみがあると示す仏の智慧を平等の[[だいえ|大慧]]、あまねくすべてに差別のない愛を平等の[[だいひ|大悲]]、すべてのものが平等である真理をさとり、差別の見解を起こさない心を[[びょうどうしん|平等心]]などという。 | また仏を[[びょうどうかく|平等覚]]、[[じしょうほっしん|自性法身]]を[[びょうどうほっしん|平等法身]]、[[いちじょう|一乗]]の法のみがあると示す仏の智慧を平等の[[だいえ|大慧]]、あまねくすべてに差別のない愛を平等の[[だいひ|大悲]]、すべてのものが平等である真理をさとり、差別の見解を起こさない心を[[びょうどうしん|平等心]]などという。 | ||
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+ | 仏教では、[[むが|無我]]や[[むじょう|無常]]という考えによって一元的実在論を否定したが、それは、現象を決して同一の重ねあわせのきかない時間的流れそのものとして捉えようとする徹底した批判の立場だった。その意味で、本来の仏教が安易な平等観はとらなかったばかりか、かかる平等観によって原理的には温存されがちなカースト制度を否定し種姓の平等を説いていた〔『雑阿含経』第548〕ということは、正統的なインド思想一般との対比においても充分注目されなければならない。<br> | ||
+ | しかし、このような仏教の批判的立場は、仏教史を通じてつねに一貫して守られてきたというよりは、むしろ実在論的見方によってたえずとってかわられる危険にさらされてきた。部派仏教的展開においては、無我や無常という、いわば仏教にとって自明と化した理論のうちで、種々の現象はそのままいくつかの多様な要素(nānā-dhātu)として実在視されるにいたったが、これを[[くう|空]]や[[むじしょう|無自性]]によって否定したのが、初期の大乗仏教であった。この新たな思潮の台頭によって、仏教本来の批判的立場は、在家も巻きこんで再び確固たる地歩を築くかに見えた。しかし、バラモン文化への復古政策がとられたグプタ王朝(4世紀)以降は、大乗仏教も教団として安定した勢力を延ばす一方、本来の批判的立場も失って、急速に一元的実在論に傾いていった。<br> | ||
+ | 仏の[[ほっしん|法身]](dharmakāya)だけが実在で、すべての[[しゅじょう|衆生]]は、それを本質としているという意味での同一性(tādātmya)によって、すべての衆生が、如来蔵(tathāgata-garbha)や[[ぶっしょう|仏性]](buddha-dhātu)を有していると説く[[にょらいぞう|如来蔵]]思想は、かかる一元的実在論の典型である。<br> | ||
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+ | の差別に対しては決して批判的なものとしてははたらきえない点で、ウパニシャッド哲学やシャンカラの不二一元論などとまったく軌を一にしていることに留意しなければならない。ほぼ同じ時期に形成された[[ゆいしき|唯識]]説は、部派仏教的伝統である多様な要素(nānā-dhātu)を実在として取りこんで修道論上は三乗真実説を主張したが、これも本質的には[[ほっかい|法界]](dharma-dhātu)を唯一の基体(eka-dhātu)とする一元論であって、肯定されたかにみえる種々な差異も実は法界を本質としているという意味での同一性によって保証された差別にほかならない。 | ||
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+ | 中国においては、無常や空にもとづく仏教本来の批判的立場はほとんど根づくことがなかったにもかかわらず、上述した仏教の一元論的実在論は中国的な体用説や[[ろうそう|老荘]]の万物斉同説によって読みかえられて、それが仏教のすぐれた平等思想ででもあるかのように受容されてきたことに対しては今後充分注意を払って検討しなおしていかなければならない。さきにみた仏教の一元論的実在論は、僧肇の本跡説によって中国的展開の端緒を開き、南朝梁の武帝代に体用思想として一応の結実をみた直後に、『大乗起信論』の登場というかたちで圧倒的隆盛を迎えることになる。<br> | ||
+ | 一切の諸法はただ妄念に依りてのみ差別有るも、若し心念を離るるときは、則ち一切の境界の相無し、是の故に一切法はもとより已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等なり。 | ||
+ | と述べる『大乗起信論』は、[[しんにょ|真如]]だけが実在でそれ以外の現象は妄念による単なる差別にすぎず妄念を離れさえすればすべてが平等であると主張するわけであるが、かかる平等思想は、いわばシャンカラの現象虚妄論の中国版といってもよい性格を示していることに極力配慮する必要があろう。『大乗起信論』は、禅宗を中心とする後代の中国仏教に圧倒的影響を及ぼし、それにもとづく代表的仏教思想においても、平等即差別、差別即平等などというラフな表現が平然と繰り返されていったのである。<br> | ||
+ | 真如の一元論に立脚する『大乗起信論』の平等思想は、老荘の万物斉同説をも取りこみながら、わが国においては、「草木国土悉皆成仏」という生物のみならず無生物さえも含んだ[[ほんがくしそう|本覚思想]]にもとづく平等思想として開花するが、それは、生物も無生物も差別のうちにいながらにして真如を本質としているという意味においてすべてが仏性をもっていることを述べているだけにすぎず、現実の差別はそっくりそのまま温存された平等思想であって、そこには仏教本来の批判的精神のかけらさえもはたらいていない。 |
2022年8月13日 (土) 14:39時点における最新版
平等
差別のないこと。釈尊は階級的差別を否定して四姓平等を説き、また諸経論には、仏法僧の三宝や心・仏・衆生の三法などがその本質において差別のないことを説いて平等とし、あるいは本体界の相貌を顕して空平等、真如平等などという。
また仏を平等覚、自性法身を平等法身、一乗の法のみがあると示す仏の智慧を平等の大慧、あまねくすべてに差別のない愛を平等の大悲、すべてのものが平等である真理をさとり、差別の見解を起こさない心を平等心などという。
仏教
仏教では、無我や無常という考えによって一元的実在論を否定したが、それは、現象を決して同一の重ねあわせのきかない時間的流れそのものとして捉えようとする徹底した批判の立場だった。その意味で、本来の仏教が安易な平等観はとらなかったばかりか、かかる平等観によって原理的には温存されがちなカースト制度を否定し種姓の平等を説いていた〔『雑阿含経』第548〕ということは、正統的なインド思想一般との対比においても充分注目されなければならない。
しかし、このような仏教の批判的立場は、仏教史を通じてつねに一貫して守られてきたというよりは、むしろ実在論的見方によってたえずとってかわられる危険にさらされてきた。部派仏教的展開においては、無我や無常という、いわば仏教にとって自明と化した理論のうちで、種々の現象はそのままいくつかの多様な要素(nānā-dhātu)として実在視されるにいたったが、これを空や無自性によって否定したのが、初期の大乗仏教であった。この新たな思潮の台頭によって、仏教本来の批判的立場は、在家も巻きこんで再び確固たる地歩を築くかに見えた。しかし、バラモン文化への復古政策がとられたグプタ王朝(4世紀)以降は、大乗仏教も教団として安定した勢力を延ばす一方、本来の批判的立場も失って、急速に一元的実在論に傾いていった。
仏の法身(dharmakāya)だけが実在で、すべての衆生は、それを本質としているという意味での同一性(tādātmya)によって、すべての衆生が、如来蔵(tathāgata-garbha)や仏性(buddha-dhātu)を有していると説く如来蔵思想は、かかる一元的実在論の典型である。
この思想は、すべての衆生に如来蔵や仏性を認める点でまぎれもなく一種の平等思想を表明しているが、その平等観が実際
の差別に対しては決して批判的なものとしてははたらきえない点で、ウパニシャッド哲学やシャンカラの不二一元論などとまったく軌を一にしていることに留意しなければならない。ほぼ同じ時期に形成された唯識説は、部派仏教的伝統である多様な要素(nānā-dhātu)を実在として取りこんで修道論上は三乗真実説を主張したが、これも本質的には法界(dharma-dhātu)を唯一の基体(eka-dhātu)とする一元論であって、肯定されたかにみえる種々な差異も実は法界を本質としているという意味での同一性によって保証された差別にほかならない。
中国
中国においては、無常や空にもとづく仏教本来の批判的立場はほとんど根づくことがなかったにもかかわらず、上述した仏教の一元論的実在論は中国的な体用説や老荘の万物斉同説によって読みかえられて、それが仏教のすぐれた平等思想ででもあるかのように受容されてきたことに対しては今後充分注意を払って検討しなおしていかなければならない。さきにみた仏教の一元論的実在論は、僧肇の本跡説によって中国的展開の端緒を開き、南朝梁の武帝代に体用思想として一応の結実をみた直後に、『大乗起信論』の登場というかたちで圧倒的隆盛を迎えることになる。
一切の諸法はただ妄念に依りてのみ差別有るも、若し心念を離るるときは、則ち一切の境界の相無し、是の故に一切法はもとより已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等なり。
と述べる『大乗起信論』は、真如だけが実在でそれ以外の現象は妄念による単なる差別にすぎず妄念を離れさえすればすべてが平等であると主張するわけであるが、かかる平等思想は、いわばシャンカラの現象虚妄論の中国版といってもよい性格を示していることに極力配慮する必要があろう。『大乗起信論』は、禅宗を中心とする後代の中国仏教に圧倒的影響を及ぼし、それにもとづく代表的仏教思想においても、平等即差別、差別即平等などというラフな表現が平然と繰り返されていったのである。
真如の一元論に立脚する『大乗起信論』の平等思想は、老荘の万物斉同説をも取りこみながら、わが国においては、「草木国土悉皆成仏」という生物のみならず無生物さえも含んだ本覚思想にもとづく平等思想として開花するが、それは、生物も無生物も差別のうちにいながらにして真如を本質としているという意味においてすべてが仏性をもっていることを述べているだけにすぎず、現実の差別はそっくりそのまま温存された平等思想であって、そこには仏教本来の批判的精神のかけらさえもはたらいていない。