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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(阿含経)
 
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aagama आगम (sanskrit, pali)
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<big>āgama आगम</big> (S,P)
  
およそ仏典と言われるものの中で、唯一、歴史上の釈迦の言説が含まれている初期[[ぶっきょう|仏教]]の[[きょうてん|経典]]。「[[あごん|阿含]]」とは、サンスクリット・パーリ語の「アーガマ」の音写で、伝承された教説、その集成の意味。<br>
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 およそ仏典と言われるものの中で、唯一、歴史上の釈迦の言説が含まれている初期[[ぶっきょう|仏教]]の[[きょうてん|経典]]。「[[あごん|阿含]]」とは、サンスクリット・パーリ語の「アーガマ」の音写で、伝承された教説、その集成の意味。<br>
[[しゃか|釈迦]]滅後、その教説は何回かのまとめられて[[きょう|経]]蔵(sutta-piTaka (pali))を形成した。他方、守るべき規則は[[りつ|律]]蔵(vinaya-piTaka (pali))としてまとめられた。
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[[しゃか|釈迦]]滅後、その教説は何回かのまとめられて[[きょう|経]]蔵(sutta-piṭaka (P))を形成した。他方、守るべき規則は[[りつ|律]]蔵(vinaya-piṭaka (P))としてまとめられた。
  
経蔵は、それぞれ'''阿含'''または'''部'''(nikaaya)の名で表示された。現存するものは、スリランカ、ミャンマー(旧ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムに伝えられている'''パーリ語聖典'''と、それに相応する'''漢訳経典'''などである。
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 経蔵は、それぞれ'''阿含'''または'''部'''(nikāya)の名で表示された。現存するものは、スリランカ、ミャンマー(旧ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムに伝えられている'''パーリ語聖典'''と、それに相応する'''漢訳経典'''などである。
  
#. ''長部'' (diigha-nikaaya (pali)) ''[[じょうあごんきょう|長阿含経]]''長篇の経典。<br>
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# ''長部'' (dīgha-nikāya (P))  ''[[じょうあごんきょう|長阿含経]]''  長篇の経典。<br>
#. ''中部'' (majjhima-nikaaya) ''[[ちゅうあごんきょう|中阿含経]]'' 中篇の経の集成。<br>
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# ''中部'' (majjhima-nikāya)  ''[[ちゅうあごんきょう|中阿含経]]''  中篇の経の集成。<br>
#. ''相応部'' (saMyutta-nikaaya) ''[[ぞうあごんきょう|雑阿含経]]'' 短篇の経典集。<br>
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# ''相応部'' (saṃyutta-nikāya)  ''[[ぞうあごんきょう|雑阿含経]]''  短篇の経典集。<br>
#. ''増支部'' (aGguttara-nikaaya) ''[[ぞういちあごんきょう|増壱阿含経]]'' 法数ごとに集められた短篇の経典。<br>
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# ''増支部'' (ańguttara-nikāya)  ''[[ぞういちあごんきょう|増壱阿含経]]''  法数ごとに集められた短篇の経典。<br>
#. ''小部'' (khuddaka-nikaaya) ''[[ほっくきょう|法句経]]''や''[[ほんじょうきょう|本生経]]''など。漢訳では相当文が散在。<br>
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# ''小部'' (khuddaka-nikāya)  ''[[ほっくきょう|法句経]]''や''[[ほんじょうきょう|本生経]]''など。漢訳では相当文が散在。<br>
一般に、前4世紀から前1世紀にかけて、徐々に作成されたものであろう。
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 一般に、前4世紀から前1世紀にかけて、徐々に作成されたものであろう。
  
中国においても、原初的な経典であることに気付いており、研究を行った記録もあるが、大勢を占めることはなかった。日本にも伝播初期から伝えられており、[[くしゃしゅう|倶舎宗]]などでの研究があったとされるが、ほとんど伝えられていない。
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 中国においても、原初的な経典であることに気付いており、研究を行った記録もあるが、大勢を占めることはなかった。日本にも伝播初期から伝えられており、[[くしゃしゅう|倶舎宗]]などでの研究があったとされるが、ほとんど伝えられていない。
  
''阿含経''は、パーリ語のものからの漢訳とは考えられない形跡がある。同経典がサンスクリット語で伝えられ、漢訳されたとも考えるものがある。<br>
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 ''阿含経''は、パーリ語のものからの漢訳とは考えられない形跡がある。同経典がサンスクリット語で伝えられ、漢訳されたとも考えるものがある。<br>
さらに、パーリ語の''ニカーヤ''は、その名のとおり、[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]の'''部派'''にそれぞれ独自に伝えられており、少なからず異動がある。逆に、その異動によって'''部派'''を特定することもされている。<br>
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 さらに、パーリ語の''ニカーヤ''は、その名のとおり、[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]の'''部派'''にそれぞれ独自に伝えられており、少なからず異動がある。逆に、その異動によって'''部派'''を特定することもされている。<br>
 
現在残っているパーリ語経典よりも、漢訳の''阿含経''の方が古い形態を残していると認められることがしばしばある。上記の'''部派'''による伝承の間に編集ないし変質が加わったためであろう、と考えられている。
 
現在残っているパーリ語経典よりも、漢訳の''阿含経''の方が古い形態を残していると認められることがしばしばある。上記の'''部派'''による伝承の間に編集ないし変質が加わったためであろう、と考えられている。
  
この''ニカーヤ''や''阿含経''は、ヨーロッパの研究者によって注目され、世界中に広がった。そのため、[[だいじょうきょうてん|大乗経典]]より西欧に対する影響は大きく、'''新しい宗教'''の考え方の基盤となっている思われている。天台大師の五時八教の経相判釈に縛られていた日本仏教会を解放した功績は大きいと言わねばならない。<br>
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 この''ニカーヤ''や''阿含経''は、ヨーロッパの研究者によって注目され、世界中に広がった。そのため、[[だいじょうきょうてん|大乗経典]]より西欧に対する影響は大きく、'''新しい宗教'''の考え方の基盤となっている思われている。天台大師の五時八教の経相判釈に縛られていた日本仏教会を解放した功績は大きいと言わねばならない。<br>
しかしながら、'''釈迦'''の言葉を直接伝えたから、[[しんごん|真言]]として使用することは、インドの[[みっきょう|密教]]時代から行われていた形跡がある。しかし、この'''経典'''の趣旨から外れている。
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 しかしながら、'''釈迦'''の言葉を直接伝えたから、[[しんごん|真言]]として使用することは、インドの[[みっきょう|密教]]時代から行われていた形跡がある。しかし、この'''経典'''の趣旨から外れている。
  
 
==四阿含の意図==
 
==四阿含の意図==
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===長阿含===
 
===長阿含===
「長阿含」は22巻に収められ、内容は四分30経に編集されている。<br>
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 「長阿含(Dīgha-nikāya)」は22巻に収められ、内容は四分30経に編集されている。ただし、Dīgha-nikāyaは34経である。<br>
 
 第一分では「大本経」「遊行経」「典尊経」「闍尼沙経」の4経によって、仏教の伝統と仏陀の事歴を明らかにし、仏陀に関するいろいろなことがらを述べる。次に第二分は「小縁経」より「大会経」までの15経で仏教における修行や教理について述べるもので、ここでは仏陀の教えが中心となって説かれている。次に第三分は「阿摩昼経」より「露遮経」までの10経で、主として外道説より仏陀の教えが秀れていることを、外道説の論難を通して明らかにしている。最後に第四分は「世記経」であり、世界の成敗を説く。
 
 第一分では「大本経」「遊行経」「典尊経」「闍尼沙経」の4経によって、仏教の伝統と仏陀の事歴を明らかにし、仏陀に関するいろいろなことがらを述べる。次に第二分は「小縁経」より「大会経」までの15経で仏教における修行や教理について述べるもので、ここでは仏陀の教えが中心となって説かれている。次に第三分は「阿摩昼経」より「露遮経」までの10経で、主として外道説より仏陀の教えが秀れていることを、外道説の論難を通して明らかにしている。最後に第四分は「世記経」であり、世界の成敗を説く。
  
 
===中阿含===
 
===中阿含===
 「中阿含」についてみれば、それは60巻に収められ、222経を含んでいる。この中には主として[[したい|四諦]]、[[じゅうにいんねん|十二因縁]]、[[ぼんのう|煩悩]]、[[ごう|業]]、[[ぜんじょう|禅定]]、[[くらく|苦楽]]の[[かほう|果報]]などや仏陀の弟子の言行などが説かれているので、この部は非常に学者らしい教えを説くものである。
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 「中阿含(Majjhima-nikāya)」についてみれば、それは60巻に収められ、224経を含んでいる。この中には主として[[したい|四諦]]、[[じゅうにいんねん|十二因縁]]、[[ぼんのう|煩悩]]、[[ごう|業]]、[[ぜんじょう|禅定]]、[[くらく|苦楽]]の[[かほう|果報]]などや仏陀の弟子の言行などが説かれているので、この部は非常に学者らしい教えを説くものである。<br>
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 Majjhima-nikāya मज्झिमनिकायには、152経がある。
  
 
===増一阿含===
 
===増一阿含===
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 ところで、この漢訳の四阿含に対して南方のセイロン上座部を中心とする南方仏教の中には、四阿含とほぼ相応すると考えられる「長部経典」〈Digha-Nikaya)「中部経典」〈Maiihima-Nikaya)「増支部経典」〈Anguttara-Nikaya)「相応部経典」〈Samyutta-Nikaya)と「小部経典」〈Khud-daka-Nikaya>を含む'''五部経典'''が伝えられている。いま、両者を比較する時、経典の構成と編集のありかたが、非常に違っている。同じ原始経典といわれながら、その数においても、編集のしかたにおいても差異があるということは、今日、われわれにみられる経典が、ある一部の人々によって伝承されたものであって、インドの各部派には、もっとほかにいろいろの伝承があったことを示している。いま、このような立場で、現存の四阿含についてみるのに、これらの四阿含にも、明らかに伝承の差異があったことをしるのである。
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 ところで、この漢訳の四阿含に対して南方のセイロン上座部を中心とする南方仏教の中には、四阿含とほぼ相応すると考えられる「長部経典」(Dīgha-Nikāya)「中部経典」(Majjhima-Nikāya)「増支部経典」(Anguttara-Nikāya)「相応部経典」(Samyutta-Nikāya)と「小部経典」(Khud-daka-Nikāya)を含む'''五部経典'''が伝えられている。いま、両者を比較する時、経典の構成と編集のありかたが、非常に違っている。同じ原始経典といわれながら、その数においても、編集のしかたにおいても差異があるということは、今日、われわれにみられる経典が、ある一部の人々によって伝承されたものであって、インドの各部派には、もっとほかにいろいろの伝承があったことを示している。いま、このような立場で、現存の四阿含についてみるのに、これらの四阿含にも、明らかに伝承の差異があったことをしるのである。
  
 
==部派の伝承==
 
==部派の伝承==
 次に、このような点について簡単にふれておこう。
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 このような阿含経典の伝承について、古く注意した人は中国の[[じおんだいし|慈恩大師]][[きき|窺基]]〈632-683〉であり、かれは、これら阿含経典を[[だいしゅぶ|大衆部]]の伝承であるとした。ところが法幢は『倶舎論稽古』の中で「中阿含」「雑阿含」は説一切有部、「増一阿含」は大衆部、「長阿含」は[[けじぶ|化地部]]であると説いている。ところが、現在ではこれらをもととして、いろいろ研究された結果「長阿含」は[[ほうぞうぶ|法蔵部]]、「中阿含」「雑阿含」は[[せついっさいうぶ|説一切有部]]、「増一阿含」は大衆部と考えられている。<br>
 このような阿含経典の伝承について、古く注意した人は中国の[[じおんだいし|慈恩大師]][[きき|窺基]]〈632-683〉であり、かれは、これら阿含経典を[[だいしゅぶ|大衆部]]の伝承であるとした。ところが[[ほほ法゜|法幢]]は『倶舎論稽古』の中で「中阿含」「雑阿含」は説一切有部、「増一阿含」は大衆部、「長阿含」は[[けじぶ|化地部]]であると説いている。ところが、現在ではこれらをもととして、いろいろ研究された結果「長阿含」は[[ほうぞうぶ|法蔵部]]、「中阿含」「雑阿含」は[[せついっさいうぶ|説一切有部]]、「増一阿含」は大衆部と考えられている。<br>
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 また、それぞれ自派所伝の阿含経をもっていたと思われる小乗部派については、文献による限り、少なくとも現在ではセイロン上座部、説一切有部、化地部、法蔵部、大衆部、[[おんこうぶ|飲光部]]、[[きょうりょうぶ|経量部]]などの七部派が確認される。
 
 また、それぞれ自派所伝の阿含経をもっていたと思われる小乗部派については、文献による限り、少なくとも現在ではセイロン上座部、説一切有部、化地部、法蔵部、大衆部、[[おんこうぶ|飲光部]]、[[きょうりょうぶ|経量部]]などの七部派が確認される。
  
 
 以上のように阿含経典についてみるだけでも、仏教がどのようにして、今日のようないろいろな教えに分化してきたかの事情の一端を知ることができる。
 
 以上のように阿含経典についてみるだけでも、仏教がどのようにして、今日のようないろいろな教えに分化してきたかの事情の一端を知ることができる。
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==問答で分類==
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 ほとんど大部分の形式は、まず問いがあって、それに釈尊(まれには代わって仏弟子)が答える。<br>
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 問いの文は、簡略化されてはいても、鋭くかつ厳しい。釈尊は、それらにらに臨機応変に種々の答えを示す。古来、これらの種々なる答えは次の四種類に分けられる。
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 第一は、問いをそのまま直ちに肯定する(これを一向記または決定答という)。<br>
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 第二は、問いを整理し、細かく分析して、そのひとつひとつについて答える(分別記または解義答)。<br>
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 第三は、問う相手に反問して、その意図や内容を間者にも反省して熟考させ、それらを確認しつつ答える(反問記)。<br>
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 第四は、答える必要のない問いに対しては、あくまで沈黙を貫き、けっして答えない(捨置記または置答)。<br>
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 これらがきわめて巧みに用いられ、しかも答えの中に適切な譬喩を交じえている。たとえば、「目の見えない人びとが象の各個所をなでる」の譬喩が有名。このようなことが頻繁に見られる。

2024年7月25日 (木) 13:31時点における最新版

阿含経

āgama आगम (S,P)

 およそ仏典と言われるものの中で、唯一、歴史上の釈迦の言説が含まれている初期仏教経典。「阿含」とは、サンスクリット・パーリ語の「アーガマ」の音写で、伝承された教説、その集成の意味。
釈迦滅後、その教説は何回かのまとめられて蔵(sutta-piṭaka (P))を形成した。他方、守るべき規則は蔵(vinaya-piṭaka (P))としてまとめられた。

 経蔵は、それぞれ阿含または(nikāya)の名で表示された。現存するものは、スリランカ、ミャンマー(旧ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムに伝えられているパーリ語聖典と、それに相応する漢訳経典などである。

  1. 長部 (dīgha-nikāya (P))  長阿含経  長篇の経典。
  2. 中部 (majjhima-nikāya)  中阿含経  中篇の経の集成。
  3. 相応部 (saṃyutta-nikāya)  雑阿含経  短篇の経典集。
  4. 増支部 (ańguttara-nikāya)  増壱阿含経  法数ごとに集められた短篇の経典。
  5. 小部 (khuddaka-nikāya)  法句経本生経など。漢訳では相当文が散在。

 一般に、前4世紀から前1世紀にかけて、徐々に作成されたものであろう。

 中国においても、原初的な経典であることに気付いており、研究を行った記録もあるが、大勢を占めることはなかった。日本にも伝播初期から伝えられており、倶舎宗などでの研究があったとされるが、ほとんど伝えられていない。

 阿含経は、パーリ語のものからの漢訳とは考えられない形跡がある。同経典がサンスクリット語で伝えられ、漢訳されたとも考えるものがある。
 さらに、パーリ語のニカーヤは、その名のとおり、部派仏教部派にそれぞれ独自に伝えられており、少なからず異動がある。逆に、その異動によって部派を特定することもされている。
現在残っているパーリ語経典よりも、漢訳の阿含経の方が古い形態を残していると認められることがしばしばある。上記の部派による伝承の間に編集ないし変質が加わったためであろう、と考えられている。

 このニカーヤ阿含経は、ヨーロッパの研究者によって注目され、世界中に広がった。そのため、大乗経典より西欧に対する影響は大きく、新しい宗教の考え方の基盤となっている思われている。天台大師の五時八教の経相判釈に縛られていた日本仏教会を解放した功績は大きいと言わねばならない。
 しかしながら、釈迦の言葉を直接伝えたから、真言として使用することは、インドの密教時代から行われていた形跡がある。しかし、この経典の趣旨から外れている。

四阿含の意図

 ところで、多くの経典をこれらの四種に区分して輯録した意図とその区分の標準は何であったかというと、これについてはいろいろの伝説があるが、それを形態のうえの区分であるとする説と、それぞれの目的によって区分されたとする説との二説にまとめられる。

形態による区分

 形態で区分したとする主張では、文句の長いものを集めて「長阿含」、文句の中なるものを集めて「中阿含」、文句の雑なるものを集めて「雑阿含」、説かれる法が1から11までの数の順序で整理されたものを「増一阿含」というなどといわれる。

目的による区分

 次に、修行する人々のもつ目的に応じて四種に区分されたとする説は ①諸の天人や世人のために随時に説法されたものを集めたのが「増一阿含」であり、勧化者たるべきものが習うべきものであり、②秀れた人々のために甚深の義を説いたものが「中阿含」であり、それは学問するものが習うべきものである。また、③種々の禅に関するものが説かれているものを集めたのが「雑阿含」であるから、これは坐禅を志すものが習うべきであり、④最後に外道説を破斥するものが「長阿含」であるなどという。

漢訳

 さて、このような意図と標準で編集された四阿含を現存の漢訳についてみる。

長阿含

 「長阿含(Dīgha-nikāya)」は22巻に収められ、内容は四分30経に編集されている。ただし、Dīgha-nikāyaは34経である。
 第一分では「大本経」「遊行経」「典尊経」「闍尼沙経」の4経によって、仏教の伝統と仏陀の事歴を明らかにし、仏陀に関するいろいろなことがらを述べる。次に第二分は「小縁経」より「大会経」までの15経で仏教における修行や教理について述べるもので、ここでは仏陀の教えが中心となって説かれている。次に第三分は「阿摩昼経」より「露遮経」までの10経で、主として外道説より仏陀の教えが秀れていることを、外道説の論難を通して明らかにしている。最後に第四分は「世記経」であり、世界の成敗を説く。

中阿含

 「中阿含(Majjhima-nikāya)」についてみれば、それは60巻に収められ、224経を含んでいる。この中には主として四諦十二因縁煩悩禅定苦楽果報などや仏陀の弟子の言行などが説かれているので、この部は非常に学者らしい教えを説くものである。
 Majjhima-nikāya मज्झिमनिकायには、152経がある。

増一阿含

 「増一阿含」は、51巻に訳出され、「序品」から「大愛道般涅槃品」まで五十二品に分けられ、法数によって一法から十一法までを説いている。

 このシリーズを伝えていた部派には諸説ある。宇井伯寿は「大衆部系」とし、友松圓諦は「迦葉惟部(かしょういぶ)」としている。

雑阿含

 『雑阿含』は50巻に収められ、1470経を含んでいる。この中には主として短いものが多いが、非常に古いものを収めている点、注意すべきである。


 ところで、この漢訳の四阿含に対して南方のセイロン上座部を中心とする南方仏教の中には、四阿含とほぼ相応すると考えられる「長部経典」(Dīgha-Nikāya)「中部経典」(Majjhima-Nikāya)「増支部経典」(Anguttara-Nikāya)「相応部経典」(Samyutta-Nikāya)と「小部経典」(Khud-daka-Nikāya)を含む五部経典が伝えられている。いま、両者を比較する時、経典の構成と編集のありかたが、非常に違っている。同じ原始経典といわれながら、その数においても、編集のしかたにおいても差異があるということは、今日、われわれにみられる経典が、ある一部の人々によって伝承されたものであって、インドの各部派には、もっとほかにいろいろの伝承があったことを示している。いま、このような立場で、現存の四阿含についてみるのに、これらの四阿含にも、明らかに伝承の差異があったことをしるのである。

部派の伝承

 このような阿含経典の伝承について、古く注意した人は中国の慈恩大師窺基〈632-683〉であり、かれは、これら阿含経典を大衆部の伝承であるとした。ところが法幢は『倶舎論稽古』の中で「中阿含」「雑阿含」は説一切有部、「増一阿含」は大衆部、「長阿含」は化地部であると説いている。ところが、現在ではこれらをもととして、いろいろ研究された結果「長阿含」は法蔵部、「中阿含」「雑阿含」は説一切有部、「増一阿含」は大衆部と考えられている。
 また、それぞれ自派所伝の阿含経をもっていたと思われる小乗部派については、文献による限り、少なくとも現在ではセイロン上座部、説一切有部、化地部、法蔵部、大衆部、飲光部経量部などの七部派が確認される。

 以上のように阿含経典についてみるだけでも、仏教がどのようにして、今日のようないろいろな教えに分化してきたかの事情の一端を知ることができる。

問答で分類

 ほとんど大部分の形式は、まず問いがあって、それに釈尊(まれには代わって仏弟子)が答える。
 問いの文は、簡略化されてはいても、鋭くかつ厳しい。釈尊は、それらにらに臨機応変に種々の答えを示す。古来、これらの種々なる答えは次の四種類に分けられる。

 第一は、問いをそのまま直ちに肯定する(これを一向記または決定答という)。
 第二は、問いを整理し、細かく分析して、そのひとつひとつについて答える(分別記または解義答)。
 第三は、問う相手に反問して、その意図や内容を間者にも反省して熟考させ、それらを確認しつつ答える(反問記)。
 第四は、答える必要のない問いに対しては、あくまで沈黙を貫き、けっして答えない(捨置記または置答)。
 これらがきわめて巧みに用いられ、しかも答えの中に適切な譬喩を交じえている。たとえば、「目の見えない人びとが象の各個所をなでる」の譬喩が有名。このようなことが頻繁に見られる。