操作

「くうかい」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(空海)
(空海)
 
3行目: 3行目:
  
 
 四国の讃岐国多度郡屏風ケ浦(香川県善通寺市)に生まれる。父は佐伯直田公、母は阿刀(あと)氏、幼名は真魚(まお)。<br>
 
 四国の讃岐国多度郡屏風ケ浦(香川県善通寺市)に生まれる。父は佐伯直田公、母は阿刀(あと)氏、幼名は真魚(まお)。<br>
 15歳のとき伯父の阿刀大足(おおたり)に伴われて上京<br>
+
 15歳のとき伯父の阿刀大足(おおたり)に伴われて上京<br>
 18歳のとき大学に入り、中国の諸学問を学んだが、仏教を行学する志をいだき退学。<br>
+
 18歳のとき大学に入り、中国の諸学問を学んだが、仏教を行学する志をいだき退学。<br>
 
 四国の阿波(徳島県)の大滝嶽や土佐(高知県)の室戸崎(室戸岬)で求聞持法(ぐもんじほう)などきびしい修行をし、また奈良の諸大寺で仏教学を学ぶ。<br>
 
 四国の阿波(徳島県)の大滝嶽や土佐(高知県)の室戸崎(室戸岬)で求聞持法(ぐもんじほう)などきびしい修行をし、また奈良の諸大寺で仏教学を学ぶ。<br>
 24歳のとき『[[さんごうしいき|三教指帰]]』を著して儒教(じゅきょう)・道教(どうきょう)・仏教の優劣を論じたのが、空海の出家の宣言書ともいわれる。
+
 24歳のとき『[[さんごうしいき|三教指帰]]』を著して儒教(じゅきょう)・道教(どうきょう)・仏教の優劣を論じたのが、空海の出家の宣言書ともいわれる。
  
 
 その頃、[[くめでら|久米寺]](奈良県橿原市)で[[だいにちきょう|大日経]]を発見し、密教に深い関心を寄せた。<br>
 
 その頃、[[くめでら|久米寺]](奈良県橿原市)で[[だいにちきょう|大日経]]を発見し、密教に深い関心を寄せた。<br>
 804年(延暦23年)、31歳のとき遣唐大使・藤原葛野麻呂(かどのまろ)(755-818)の一行と共に、唐の都[[ちょうあん|長安]]についた。翌年5月より12月まで[[しょうりゅうじ|青竜寺]]の[[けいか|恵果]]に師事して[[かんじょう|灌頂]]を受け、秘法を授けられた。<br>
+
 804年(延暦23年)、31歳のとき遣唐大使・藤原葛野麻呂(かどのまろ)(755-818)の一行と共に、唐の都[[ちょうあん|長安]]についた。翌年5月より12月まで[[しょうりゅうじ|青竜寺]]の[[けいか|恵果]]に師事して[[かんじょう|灌頂]]を受け、秘法を授けられた。<br>
 
 般若(はんにゃ)三蔵などからも学んだが、12月に恵果が示寂(じじゃく)したので、翌806年3月(大同1)、多くの経論、[[まんだら|曼荼羅]]・法具などを請来(しょうらい)し、10月帰国した。<br>
 
 般若(はんにゃ)三蔵などからも学んだが、12月に恵果が示寂(じじゃく)したので、翌806年3月(大同1)、多くの経論、[[まんだら|曼荼羅]]・法具などを請来(しょうらい)し、10月帰国した。<br>
 36歳のとき京都の高雄山寺([[じんごじ|神護寺]])に入住し、真言密教の法灯をかかげた。これより嵯峨天皇(786年-842年)の外護のもと、真言宗の発展につとめる。<br>
+
 36歳のとき京都の高雄山寺([[じんごじ|神護寺]])に入住し、真言密教の法灯をかかげた。これより嵯峨天皇(786-842年)の外護のもと、真言宗の発展につとめる。<br>
 
 また天台宗の[[さいちょう|最澄]]と交わり、最澄とその弟子たちに灌頂を授けた。<br>
 
 また天台宗の[[さいちょう|最澄]]と交わり、最澄とその弟子たちに灌頂を授けた。<br>
 816年(弘仁7年)、43歳のとき高野山の開創にとりかかり、生涯を通じての一大事業となった。<br>
+
 816年(弘仁7年)、43歳のとき高野山の開創にとりかかり、生涯を通じての一大事業となった。<br>
 823年(弘仁14)、50歳のとき[[とうじ|東寺]]([[きょうおうごこくじ|教王護国寺]])を勅賜され、真言宗の根本道場とし、堂塔の建立につとめた。<br>
+
 823年(弘仁14)、50歳のとき[[とうじ|東寺]]([[きょうおうごこくじ|教王護国寺]])を勅賜され、真言宗の根本道場とし、堂塔の建立につとめた。<br>
 
 この間、空海は多くの門弟を教導し、多くの人々を教化し、真言宗の教団の基礎を築いた。<br>
 
 この間、空海は多くの門弟を教導し、多くの人々を教化し、真言宗の教団の基礎を築いた。<br>
 
 さらに四国の満濃池(まんのういけ)の修築に指導的役割を果たし、[[しゅげいしゅちいん|綜芸種智院]]を設立して一般の人々の教育につとめ、わが国の教育史上に輝かしい業績を残した。
 
 さらに四国の満濃池(まんのういけ)の修築に指導的役割を果たし、[[しゅげいしゅちいん|綜芸種智院]]を設立して一般の人々の教育につとめ、わが国の教育史上に輝かしい業績を残した。
27行目: 27行目:
 
*[[はんにゃしんぎょうひけん|般若心経秘鍵]]など
 
*[[はんにゃしんぎょうひけん|般若心経秘鍵]]など
  
以上の教学関係だけでなく、文才にすぐれ、多くの詩文をつくった。
+
 以上の教学関係だけでなく、文才にすぐれ、多くの詩文をつくった。
 
*[[しょうりょうしゅう|性霊集]]
 
*[[しょうりょうしゅう|性霊集]]
  
また、能筆家としても知られ
+
 また、能筆家としても知られ
 
*[[ふうしんじょう|風信帖]]
 
*[[ふうしんじょう|風信帖]]
 
*[[ろうこしいき|聾瞽指帰]]
 
*[[ろうこしいき|聾瞽指帰]]
 
などの真筆が現存する。
 
などの真筆が現存する。

2017年6月30日 (金) 09:34時点における最新版

空海

宝亀5年(774年)-承和2年(835年) 弘法大師。真言宗の開祖

 四国の讃岐国多度郡屏風ケ浦(香川県善通寺市)に生まれる。父は佐伯直田公、母は阿刀(あと)氏、幼名は真魚(まお)。
 15歳のとき伯父の阿刀大足(おおたり)に伴われて上京
 18歳のとき大学に入り、中国の諸学問を学んだが、仏教を行学する志をいだき退学。
 四国の阿波(徳島県)の大滝嶽や土佐(高知県)の室戸崎(室戸岬)で求聞持法(ぐもんじほう)などきびしい修行をし、また奈良の諸大寺で仏教学を学ぶ。
 24歳のとき『三教指帰』を著して儒教(じゅきょう)・道教(どうきょう)・仏教の優劣を論じたのが、空海の出家の宣言書ともいわれる。

 その頃、久米寺(奈良県橿原市)で大日経を発見し、密教に深い関心を寄せた。
 804年(延暦23年)、31歳のとき遣唐大使・藤原葛野麻呂(かどのまろ)(755-818)の一行と共に、唐の都長安についた。翌年5月より12月まで青竜寺恵果に師事して灌頂を受け、秘法を授けられた。
 般若(はんにゃ)三蔵などからも学んだが、12月に恵果が示寂(じじゃく)したので、翌806年3月(大同1)、多くの経論、曼荼羅・法具などを請来(しょうらい)し、10月帰国した。
 36歳のとき京都の高雄山寺(神護寺)に入住し、真言密教の法灯をかかげた。これより嵯峨天皇(786-842年)の外護のもと、真言宗の発展につとめる。
 また天台宗の最澄と交わり、最澄とその弟子たちに灌頂を授けた。
 816年(弘仁7年)、43歳のとき高野山の開創にとりかかり、生涯を通じての一大事業となった。
 823年(弘仁14)、50歳のとき東寺(教王護国寺)を勅賜され、真言宗の根本道場とし、堂塔の建立につとめた。
 この間、空海は多くの門弟を教導し、多くの人々を教化し、真言宗の教団の基礎を築いた。
 さらに四国の満濃池(まんのういけ)の修築に指導的役割を果たし、綜芸種智院を設立して一般の人々の教育につとめ、わが国の教育史上に輝かしい業績を残した。

著作

 以上の教学関係だけでなく、文才にすぐれ、多くの詩文をつくった。

 また、能筆家としても知られ

などの真筆が現存する。