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四国の阿波(徳島県)の大滝嶽や土佐(高知県)の室戸崎(室戸岬)で求聞持法(ぐもんじほう)などきびしい修行をし、また奈良の諸大寺で仏教学を学ぶ。<br> | 四国の阿波(徳島県)の大滝嶽や土佐(高知県)の室戸崎(室戸岬)で求聞持法(ぐもんじほう)などきびしい修行をし、また奈良の諸大寺で仏教学を学ぶ。<br> | ||
− | + | 24歳のとき『[[さんごうしいき|三教指帰]]』を著して儒教(じゅきょう)・道教(どうきょう)・仏教の優劣を論じたのが、空海の出家の宣言書ともいわれる。 | |
その頃、[[くめでら|久米寺]](奈良県橿原市)で[[だいにちきょう|大日経]]を発見し、密教に深い関心を寄せた。<br> | その頃、[[くめでら|久米寺]](奈良県橿原市)で[[だいにちきょう|大日経]]を発見し、密教に深い関心を寄せた。<br> | ||
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般若(はんにゃ)三蔵などからも学んだが、12月に恵果が示寂(じじゃく)したので、翌806年3月(大同1)、多くの経論、[[まんだら|曼荼羅]]・法具などを請来(しょうらい)し、10月帰国した。<br> | 般若(はんにゃ)三蔵などからも学んだが、12月に恵果が示寂(じじゃく)したので、翌806年3月(大同1)、多くの経論、[[まんだら|曼荼羅]]・法具などを請来(しょうらい)し、10月帰国した。<br> | ||
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また天台宗の[[さいちょう|最澄]]と交わり、最澄とその弟子たちに灌頂を授けた。<br> | また天台宗の[[さいちょう|最澄]]と交わり、最澄とその弟子たちに灌頂を授けた。<br> | ||
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この間、空海は多くの門弟を教導し、多くの人々を教化し、真言宗の教団の基礎を築いた。<br> | この間、空海は多くの門弟を教導し、多くの人々を教化し、真言宗の教団の基礎を築いた。<br> | ||
さらに四国の満濃池(まんのういけ)の修築に指導的役割を果たし、[[しゅげいしゅちいん|綜芸種智院]]を設立して一般の人々の教育につとめ、わが国の教育史上に輝かしい業績を残した。 | さらに四国の満濃池(まんのういけ)の修築に指導的役割を果たし、[[しゅげいしゅちいん|綜芸種智院]]を設立して一般の人々の教育につとめ、わが国の教育史上に輝かしい業績を残した。 | ||
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*[[はんにゃしんぎょうひけん|般若心経秘鍵]]など | *[[はんにゃしんぎょうひけん|般若心経秘鍵]]など | ||
− | + | 以上の教学関係だけでなく、文才にすぐれ、多くの詩文をつくった。 | |
*[[しょうりょうしゅう|性霊集]] | *[[しょうりょうしゅう|性霊集]] | ||
− | + | また、能筆家としても知られ | |
*[[ふうしんじょう|風信帖]] | *[[ふうしんじょう|風信帖]] | ||
*[[ろうこしいき|聾瞽指帰]] | *[[ろうこしいき|聾瞽指帰]] | ||
などの真筆が現存する。 | などの真筆が現存する。 |
2017年6月30日 (金) 09:34時点における最新版
空海
宝亀5年(774年)-承和2年(835年) 弘法大師。真言宗の開祖
四国の讃岐国多度郡屏風ケ浦(香川県善通寺市)に生まれる。父は佐伯直田公、母は阿刀(あと)氏、幼名は真魚(まお)。
15歳のとき伯父の阿刀大足(おおたり)に伴われて上京
18歳のとき大学に入り、中国の諸学問を学んだが、仏教を行学する志をいだき退学。
四国の阿波(徳島県)の大滝嶽や土佐(高知県)の室戸崎(室戸岬)で求聞持法(ぐもんじほう)などきびしい修行をし、また奈良の諸大寺で仏教学を学ぶ。
24歳のとき『三教指帰』を著して儒教(じゅきょう)・道教(どうきょう)・仏教の優劣を論じたのが、空海の出家の宣言書ともいわれる。
その頃、久米寺(奈良県橿原市)で大日経を発見し、密教に深い関心を寄せた。
804年(延暦23年)、31歳のとき遣唐大使・藤原葛野麻呂(かどのまろ)(755-818)の一行と共に、唐の都長安についた。翌年5月より12月まで青竜寺の恵果に師事して灌頂を受け、秘法を授けられた。
般若(はんにゃ)三蔵などからも学んだが、12月に恵果が示寂(じじゃく)したので、翌806年3月(大同1)、多くの経論、曼荼羅・法具などを請来(しょうらい)し、10月帰国した。
36歳のとき京都の高雄山寺(神護寺)に入住し、真言密教の法灯をかかげた。これより嵯峨天皇(786-842年)の外護のもと、真言宗の発展につとめる。
また天台宗の最澄と交わり、最澄とその弟子たちに灌頂を授けた。
816年(弘仁7年)、43歳のとき高野山の開創にとりかかり、生涯を通じての一大事業となった。
823年(弘仁14)、50歳のとき東寺(教王護国寺)を勅賜され、真言宗の根本道場とし、堂塔の建立につとめた。
この間、空海は多くの門弟を教導し、多くの人々を教化し、真言宗の教団の基礎を築いた。
さらに四国の満濃池(まんのういけ)の修築に指導的役割を果たし、綜芸種智院を設立して一般の人々の教育につとめ、わが国の教育史上に輝かしい業績を残した。
著作
以上の教学関係だけでなく、文才にすぐれ、多くの詩文をつくった。
また、能筆家としても知られ
などの真筆が現存する。