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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(所生得)
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aazraya-paraavRtti: aazraya-parivRtti (skt)
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<big>āśraya-parāvṛtti: āśraya-parivṛtti</big> (S)
  
 
 所依を転じること。人間存在を支えているよりどころ・根拠が変化すること。自己存在全体が汚れた迷いの状態から、清らかなさとりの状態に変化すること。[[さんしょう|三性]]で言えば、[[えたきしょう|依他起性]]の上の[[へんげしょしゅうしょう|遍計所執性]]を捨して[[えんじょうじっしょう|円成実性]]を得ること。
 
 所依を転じること。人間存在を支えているよりどころ・根拠が変化すること。自己存在全体が汚れた迷いの状態から、清らかなさとりの状態に変化すること。[[さんしょう|三性]]で言えば、[[えたきしょう|依他起性]]の上の[[へんげしょしゅうしょう|遍計所執性]]を捨して[[えんじょうじっしょう|円成実性]]を得ること。
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 「〈心身の〉基層(āśraya)の〈質的〉変貌(parivṛtti,parāvṛtti)」を意味する複合語であるが、その両分が独立して「基層が変貌する(āśrayaḥ parivartate, āśrayasya parāvṛttiḥ)」などと表現される場合もある。複合語の前分をなす基層(āśraya、[[え|依]])とは,時に,肉体的感覚器官(indriya)や男女の性的特徴(vyañjana)を指し、その転換をこの複合語によって表わすこともあるが、この用語が唯識説の中心的概念となるに及んで、その前分は精神的転換の場としての基層の意味を強めるようになった。唯識説の基本的考えによれば、精神的転換の場としての基層とは、心の底流にあって、その柔軟性(karmaṇyatā、湛任性)を妨げるべく粗悪源(dauṣṭhulya、[[そじゅう|麁重]])としてはたらいている[[あらやしき|阿頼耶識]]を指すが、これを基層とする日常的な識が質的に変貌して仏の智の状態にいたることが転依にほかならない。この前者から後者への変貌を「[[てんじきとくち|転識得智]]」ともいい、8識を立てる唯識説では、それらと仏の[[しち|四智]]との関係を次のように示す。<br>
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 すなわち阿頼耶識の変貌したものが、[[だいえんきょうち|大円鏡智]](ādarśa-jñāna)、染汚意(kliṣṭa-manas)の変貌したものが、[[びょうどうしょうち|平等性智]](samatā-jñāna)、[[いしき|意識]](mano-vijñāna)の変貌したものが、[[みょうかんざつち|妙観察智]](pratyavekṣaṇā-jñāna)、五識(pañca-vijñāna-kāya)の変貌したものが、[[じょうしょさち|成所作智]](kṛtyānuṣṭhāna-jñāna)であるという関係である。<br>
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 この八識と四智の関係は[[むじゃく|無著]]以降の注釈者たちの好んで用いるものとなったが、無著自身はこの関係を明示してはいない。しかし,[[しきうん|識蘊]](vijñāna-skandha)たる基層の変貌の結果としての四智には言及している〔『[[しょうだいじょうろん|摂大乗論]]』第10章〕ので、その萌芽的考えは彼にもあったと考えられる。
  
 
:「転」とのみ略称することがある。
 
:「転」とのみ略称することがある。

2018年8月4日 (土) 17:48時点における最新版

転依

āśraya-parāvṛtti: āśraya-parivṛtti (S)

 所依を転じること。人間存在を支えているよりどころ・根拠が変化すること。自己存在全体が汚れた迷いの状態から、清らかなさとりの状態に変化すること。三性で言えば、依他起性の上の遍計所執性を捨して円成実性を得ること。

 「〈心身の〉基層(āśraya)の〈質的〉変貌(parivṛtti,parāvṛtti)」を意味する複合語であるが、その両分が独立して「基層が変貌する(āśrayaḥ parivartate, āśrayasya parāvṛttiḥ)」などと表現される場合もある。複合語の前分をなす基層(āśraya、)とは,時に,肉体的感覚器官(indriya)や男女の性的特徴(vyañjana)を指し、その転換をこの複合語によって表わすこともあるが、この用語が唯識説の中心的概念となるに及んで、その前分は精神的転換の場としての基層の意味を強めるようになった。唯識説の基本的考えによれば、精神的転換の場としての基層とは、心の底流にあって、その柔軟性(karmaṇyatā、湛任性)を妨げるべく粗悪源(dauṣṭhulya、麁重)としてはたらいている阿頼耶識を指すが、これを基層とする日常的な識が質的に変貌して仏の智の状態にいたることが転依にほかならない。この前者から後者への変貌を「転識得智」ともいい、8識を立てる唯識説では、それらと仏の四智との関係を次のように示す。
 すなわち阿頼耶識の変貌したものが、大円鏡智(ādarśa-jñāna)、染汚意(kliṣṭa-manas)の変貌したものが、平等性智(samatā-jñāna)、意識(mano-vijñāna)の変貌したものが、妙観察智(pratyavekṣaṇā-jñāna)、五識(pañca-vijñāna-kāya)の変貌したものが、成所作智(kṛtyānuṣṭhāna-jñāna)であるという関係である。
 この八識と四智の関係は無著以降の注釈者たちの好んで用いるものとなったが、無著自身はこの関係を明示してはいない。しかし,識蘊(vijñāna-skandha)たる基層の変貌の結果としての四智には言及している〔『摂大乗論』第10章〕ので、その萌芽的考えは彼にもあったと考えられる。

「転」とのみ略称することがある。

 『成唯識論』10〔T31,54c-55b〕では、転依を「能転道・所転依・所転捨・所転得」の4つに分けて詳しく分析している。

能転道

 能く転依を起こす道。煩悩障所知障との二障を捨てて菩提涅槃との2果を得る力となる智をいう。これに二つがある。

能伏道

 有漏智・無漏智の2智に通じ、有漏の六行智と加行智根本智後得智の無漏の3智をいう。これらの智は二障種子の勢力を伏して具体的に現ぜしめない。

能断道

 3智の中の根本智と、後得の無漏の2智をいう。これらの智は二障の種子を断じる。

所転依

 転依されるもの。能転道の智によって染汚な状態から清浄な状態にもたらされるもの。

持種依

 種子すなわち一切の存在を生じる可能力を保持している阿頼耶識(本識)をいう。それが基体となって転依が成立する。

迷悟依

 迷う、あるいはさとるよりどころである真如をいう。真如は、これに迷えば生死に輪廻して染汚な状態となり、これをさとれば涅槃を得て清浄な状態となる。

所転捨

 能転道の智によって捨てられるものである種子をいう。

所断捨

 煩悩障と所知障との二障の種子。この種子は無漏智が生じた刹那(無間道)に断ぜられる。

所棄捨

 障とはならない有漏法の種子と劣なる無漏法の種子。これらは障とはならないが、金剛喩定においてこれらの種子を保持している阿頼耶識が根底から清浄となるから有漏の種子と劣なる無漏の種子もおのずから捨てられる。

所転得

 二障の種子が断じられることによって獲得されるもの。

所顕得

 涅槃のこと。涅槃は真如を本体とし、二障が除かれることによって真如が顕現する。

所生得

 菩提のこと。所知障が断ぜられることによって八識を転じて生じる四智成所作智妙観察智平等性智大円鏡智)のこと。