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トーク

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

総論

 無を表現するサンスクリット語としては、アサット(asat)、アバーヴァ(abhāva)がある。アサットは「存在しないものごと」のこと、アバーヴァは「存在しないこと」「非存在」のことを意味する。「アサット」から「ア」を取った「サット」は「存在するもの」であり、「アバーヴァ」から「ア」を取った「バーヴァ」は「存在」である。
 こうした「ア」(a-)は、英語でいえばnon-とかun-とかin-といった、否定概念を作る接頭語に相当するが、インドの言葉には、この「ア」をともなう言葉が非常に多い。ふつうならば肯定的な概念で表現してしかるべきところを、たとえば、心楽しく安らかなことも、「アショーカ」(無憂)といったように、わざわざ否定的な表現をすることが多いのである。
 インドの宗教文献を見ると、こうした傾向はさらに顕著になる。その理由は、真理・真実は、日常われわれが用いている言葉によっては表現することができない、という考えがインドでは支配的であったということである。ウパニシャッドの有名な文句に、「しからず、しからず」(neti neti)というのがある。これは、本当の自我(アートマン)というものは、いかなる言葉をもってきても指し示すことはできないということをいったものである。また、中観派の開祖として知られるナーガールジュナ(龍樹)は、言葉のもつ限界、自己矛盾を徹底的にあばいた。彼の、「不生不滅」に始まるいわゆる「八不」は、いわば、真実を前にした累々たる言葉の屍の山を示したものであるといえる。言葉の厳密な意味において「有る」とするわけではないが、さまざまな学派は、無は知識の対象として、何らかの意味において存在すると考えた。たとえば、「地面の上に水がめがない」という状況を設定して考えてみよう。この状況は、また、「地面は水がめの無を有する」といいかえられる。ニヤーヤヴァイシェーシカ派によれば、この場合、地面は、ただの地面としてあるのではなく、あくまでも「水がめの無を有する」地面としてある。したがって、たとえば、「杖をもつ人」という場合と同じく、「水がめの無」と「地面」とは、「限定」(viśeṣaṇa)と、「限定されるもの」(viśeṣya)との関係にあることになる。これをまた、この学派独特の用語法でいいかえれば、「地面は限定性関係(viśeṣaṇatā)によって水がめの無を有する」ということになる。また、無というものは、端的にただの無としてあることはない。必ずや、「何か」の無としてある。さらに、無というものは、どこにもないものとしてあることはない。必ずや、「どこそこ」における無としてある。上に例としてあげた無は、「水がめ」の無であり、「地面」における無である。術語的にいうならば、この「何か」というのは「肯定的対蹠者」(pratiyogin,逆結するもの)、「どこそこ」というのは「基体」(anuyogin 順結するもの,adhikaraṇa)と称せられる。ちなみに、ミーマーンサー派の一分派であるプラーバーカラ派は、無はただの基体そのものであるにすぎず、ことさらに無なるものがあるわけではないと主張する。この主張は、特に、上述のごとく、ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派によって批判された。

各種の無

 ことさらに無なるものがあるわけではない、と主張するプラーバーカラ派は別として、そのほかの、ほとんどの学派は、無を、ほぼ以下のように分類する。
 まず、無は、「甲は乙でない」「甲が乙にない」という文法上の区別に応じて、更互無(anyonyābhāva)と不会無(saṃsargābhāva)とに分けられる。更互無は甲が乙と同 一でないというときの無であり、しばしば、「区別」(bheda)といいかえられる。たとえば「水がめは布でない」というときの無の肯定的対蹠者は水がめであり、基体は布である。不会無はさらに未生無(prāgabhāva)、已滅無(dhvaṃsa,pradhvaṃsābhāva)、畢竟無(atyantābhāva)の3つに分けられる。未生無は、たとえば、水がめが生ずる以前の水がめの無のことである。この無には、始めはないが終わりがある。已滅無は、たとえば水がめが壊れてしまったあとの水がめの無のことである。この無には、始めはあるが終わりがない。畢竟無は、たとえば、端的に、地面に水がめがないというときの水がめの無のことである。いわば、普通の無のことである。この無には、始めもなければ終わりもない。ただし、時として、この無は、たとえば兎の角のように、絶対にこの世にありえない無のことであるとされる。

無の認識

 たとえば、眼の前にある地面に水がめがないというように、無を明らかに知る場合、それがいかなる知識手段によって知られるのかということに関して、インドには大きく分けて2つの考え方がある。一つは直接知(pratyakṣa,現量)によって知られるとするもので、ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派の考え方である。もう一つは、不知(anupalabdhi)という知識手段によって知られるとするもので、ミーマーンサー派の一派であるバーッタ派、およびヴェーダーンタ派の考え方である。
 直接知によって無が知られるとする説は以下の通りである。まず、直接知ということであるならば、感官と対象との接触(関係)がなければならない。しかし、水がめの無が普通の意味で眼と接触することはない。ただし、上述のごとく、水がめの無は地面の限定であり、地面は、限定性関係によって水がめの無を有している。そこで、この場合の眼と水がめの無との接触とは、眼と接触した地面が有する限定性関係のことであるとされる。また、こうした無の直接知が正しいものであるためには、そもそもその無が「適合的」(yogya)であることが条件とされる。「適合的」であるとは、不会無の場合、その無の肯定的対蹴者がもしもそこにあれば直接知によって必ずや知られるということである。したがって、虚空における音の不会無は適合的であるけれども、自我(アートマン)における功徳(法)の不会無は適合的でない。功徳というものは、たとえ自我にあったとしても、直接知によって知られることは決してないからである。また、更互無の場合、その無の基体がもしもあれば直接知によって必ずや知られるということが、「適合的」ということである。したがって、杭における幽鬼の更互無(杭は幽鬼でない)は適合的であるけれども、幽鬼における杭の更互無(幽鬼は杭でない)は適合的でない。これに対して、不知によって無が知られるとする説によれば、感官が無と接触することはないから、無が直接知によって知られることはないとする。この説を主張する人びとは、地面が水がめに対して有している限定性関係を関係とは認めない。そこで、無は、もしもそれがそこにあれば直接知によって必ずや知られるという状況においてそれが知られないということそのもの、つまり不知、によって捉えられるとされる。なお、プラーバーカラ派は、ただの基体そのものの直接知以外に、いかなる無の認識もないとする。(宮元啓一)

仏教における無

 空の思想は、中国に紹介されたとき、すでに中国において展開していた老荘思想を基盤として理解された。老荘思想は無を中心概念としているが、この無の思想の根底には、現実否定の立場があり、現実の人為を排して、根源的な無の世界にたちかえることを説くものであった。この老荘思想が空の思想理解の土壌をなしていたことは、ある意味で歴史的必然であったともいえるが、少なくとも中国仏教においては、はじめ空の思想は老荘の無の思想ときわめて類似していると見られていた。しかし、空の思想は無の思想と同一視できないことが、しだいに明らかになっていく。空の思想は、現実を否定しながらも、観念的に実在世界に超脱する老荘の思想よりも、その否定が徹底していて、否定に則して事物の真相が明らかに知られることを説いている。ところで、無というと有に相対するものであると理解されやすい。空の思想は、中国・日本の仏教においては、無という言葉で語られることが多いが、この無は、いわば絶対無とでもいうべきもので、有と無との対立を超えた無であるといえよう。無は否定を含んでいるが、この否定も肯定との対立において見られるものでなく、絶対否定であって、肯定に則しての否定である。否定の徹底において、否定は絶して、そのまま絶対肯定の世界が開かれるのである。
 とは,原語śūnyaが示しているように、「空虚である」「中味がない」「うつろである」ということを原意とする。したがって、あるものが存在しないという非存在を示している。しかしこの非存在は、存在と対立するものとして見られていない。非存在ということにおいて存在が示されている。したがって空とは、無と有、否定と肯定をうちに包んでいる。たとえば「空住」とか「空屋」ということがそれをよく示している。「空住」とは「空三昧の境地」であって、存在への執われを離れたところに、ものの真相が明らかになる境地を示している。「空屋」とは、人のいない静閑処のことであって、何ものも存在しないということではない。原始仏教に見られる空は、そのほとんどがあるものの非存在、否定を示しているが、このような非存在(無)、否定を意味する空は、部派仏教にも継承され、特に修行僧の瞑想観念の内容としてとりあげられることが多い。ところが、大乗仏教になると、空の思想は飛躍的に展開し、原始仏教以来の無我の思想内容を豊かに形成せしめていく。そこでは、空は、ただ存在しないとか、無であるという否定にとどまっていない。否定に則して肯定される面が強調されてくる。たとえば「仏を見ないものは仏を見る」という逆説的表現が成立するのは、この否定即肯定の空の思想を基盤としているからである。空は直接的には無自性(実体の否定)であるが、この否定は、そのまま縁起を成立せしめているのである。(瓜生津隆真)