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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(大悲)
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 たとえば[[かんのんぼさつ|観自在菩薩]](観音)は「大悲を有するもの」とよばれる(大悲心陀羅尼)。さらに、菩薩は他者に代ってその苦を引き受けるとされ(大悲代受苦)、また、大悲をもって衆生を済度するため[[ねはん|涅槃]]に入らないとして〈大悲[[せんだい|闡提]]〉ともよばれた([[りょうがきょう|楞伽経]])。
 
 たとえば[[かんのんぼさつ|観自在菩薩]](観音)は「大悲を有するもの」とよばれる(大悲心陀羅尼)。さらに、菩薩は他者に代ってその苦を引き受けるとされ(大悲代受苦)、また、大悲をもって衆生を済度するため[[ねはん|涅槃]]に入らないとして〈大悲[[せんだい|闡提]]〉ともよばれた([[りょうがきょう|楞伽経]])。
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: [[さんぜ|三世]]の諸世尊、大悲を根本と為す。‥‥若し大悲なくば是れ則ち仏と名づけず。〔涅槃経11、T12-429c〕
  
 
 みずからの心を中心とするのではなく、相手の心をみずからの心として生きる。一切の人々と同体であるという自覚に生きることが「大悲」の意味である。キリスト教の教えなどとは異なり、他人に対する憐憫ではなく、同体・一体であるという自覚が働きとして働いている姿である。<br>
 
 みずからの心を中心とするのではなく、相手の心をみずからの心として生きる。一切の人々と同体であるという自覚に生きることが「大悲」の意味である。キリスト教の教えなどとは異なり、他人に対する憐憫ではなく、同体・一体であるという自覚が働きとして働いている姿である。<br>
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参照:[[だい|大]]
 
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===大悲四八之應===
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 観音菩薩の三十三身の応現を云う。
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===大悲の弓===
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 悲智は一双の法門であるから、これを左右の手に配すると、大悲は静徳であり左手となり、大智は動徳となって右手となる。したがって、大悲を弓に配し大智を矢に配する。
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 大悲の弓には智慧の矢をはき 〔謡曲 田村〕

2021年8月24日 (火) 22:06時点における版

大悲

mahā-karuṇā (S)

 仏の衆生に対するいつくしみ。大智、すなわち悟り(自覚、自利)をあらしめる智慧に対し、衆生済度(覚他、利他)をあらしめる原動力。仏に特有な18の徳性(十八不共仏法)の一つ。

 大乗仏教は特に仏の慈悲を強調するが、さらに菩薩にも不可欠の徳と考える。
 たとえば観自在菩薩(観音)は「大悲を有するもの」とよばれる(大悲心陀羅尼)。さらに、菩薩は他者に代ってその苦を引き受けるとされ(大悲代受苦)、また、大悲をもって衆生を済度するため涅槃に入らないとして〈大悲闡提〉ともよばれた(楞伽経)。

 三世の諸世尊、大悲を根本と為す。‥‥若し大悲なくば是れ則ち仏と名づけず。〔涅槃経11、T12-429c〕

 みずからの心を中心とするのではなく、相手の心をみずからの心として生きる。一切の人々と同体であるという自覚に生きることが「大悲」の意味である。キリスト教の教えなどとは異なり、他人に対する憐憫ではなく、同体・一体であるという自覚が働きとして働いている姿である。
 このように考えるのが仏教の中心にある考え方である。そこで、成仏が、たんに仏となることで満足するのではなく、常に他を救うことによって初めて自らの成仏となる、と言われる。
 単なる「悲」が「無瞋」、つまり怒りのない心をその「体」(ものがら)としているのに対して、「大悲」は「無癡」、つまり道理を明確に自覚している心をその体としている。つまり、特定の限定された人に対してではなく、すべての人々に向かって働く心を「大悲」と呼ぶ。

彼の聖徳太子救世観音応現、大悲闡提の菩薩なり    〔盛衰記(8)〕

参照:

大悲四八之應

 観音菩薩の三十三身の応現を云う。

大悲の弓

 悲智は一双の法門であるから、これを左右の手に配すると、大悲は静徳であり左手となり、大智は動徳となって右手となる。したがって、大悲を弓に配し大智を矢に配する。

 大悲の弓には智慧の矢をはき 〔謡曲 田村〕