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[[ほけきょう|法華経]]([[だいばだった|提婆達多]]品)などでは、女性は[[ぼんてんのう|梵天王]]・[[たいしゃくてん|帝釈天]]・[[まおう|魔王]]・[[てんりんじょうおう|転輪聖王]]・仏にはなれないという[[ごしょう|五障]]が説かれる。 | [[ほけきょう|法華経]]([[だいばだった|提婆達多]]品)などでは、女性は[[ぼんてんのう|梵天王]]・[[たいしゃくてん|帝釈天]]・[[まおう|魔王]]・[[てんりんじょうおう|転輪聖王]]・仏にはなれないという[[ごしょう|五障]]が説かれる。 |
2012年8月1日 (水) 15:41時点における版
性
prakRti
pracRti, svabhaava, bhaavaなどの用例がある。
存在するものの変わらない体質のこと。自性などと同じ意味である。
また、真理のことを指すこともある。華厳宗においては性起などと用いられるときの性がこれに当たる。この意味では、しばしば相に対する概念である。
- 性とは、即ち真如の妙理なり。 〔法華二巻抄 上〕
gotra
生まれつきの素質などを言う。「種性」「種姓」と同じ意味である。
-otaa
-otaa, -otvaなど
サンスクリットの原語は抽象名刺をつくる接尾辞であり、「~であること」「~の本質」「~という事実」などの意味である。法性(dharmataa)、善汚性(klistatva)などで使われている。
生
jaati
jaati, jamanなどの用例がある。
産まれること、転じて生存すること。
四苦の中の「生」、十二因縁の中の「生」などは生まれることを意味しており、衆縁多生や今生、生死などと言われるときは「生存」を意味する。
yoni
四生などでつかわれる「生れ方」という意味。
utpatti
jaati, utpatti, upapattiなど。
一般的な発生、出生、生起などの意味。
障
aavaraNa आवरण (skt.)
さわり、さまたげるもの、邪魔するものの意味。さとりを得るための仏道修行の障害となるものをいう。そのような障害の中で最も大きな、また根本的なものは煩悩なので、煩悩はまた煩悩障(kleza-aavaraNa)ともいう。
また五無間業(ごむけんごう)などの悪業(あくごう)を「業障」(ごっしょう)といい、善悪の行為の結果として三悪趣などに生れることを「報障」または「異熟障」という。
唯識では、障を煩悩障と所知障(jJeya-aavaraNa, 悟りの境地に対する障害、すなわち無智)の二障に分ける。そして阿羅漢は煩悩障は断じているから涅槃は得ているが所知障は断じていないから菩提(究極の悟り)は得ていない、仏は煩悩障・所知障ともに断じているから涅槃も菩提もともに得ている、として、この二障の相違によって大乗と小乗の得果に相違のあることを説いた。
法華経(提婆達多品)などでは、女性は梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏にはなれないという五障が説かれる。
聖
「正」の意味を持っている。正道を証することを「聖」と言う。
- 聖とは正である。理によって物を正すことを名づけて聖とする。 〔勝鬘経宝窟〕
- 初地以上で、妄を息(やす)め真と契り正に会するを、聖と名づける。 〔大乗義章〕
声
声は無常なり
- 宗 声は無常なり
- 因 縁起の故に
- 喩 瓶等の如し・虚空の如し
このような論証式を三支作法と呼ぶ。
この場合、「声」は単に音声としての声ではなく、原語としての声でもない。仏・菩薩・その他の神などが発した言葉すべてを総称しており、それは無常なるモノであり信頼すべきものではないということを意味している。