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このような正法・像法仏教衰滅思想を受けて、中国で、大成されるのが末法法滅思想である。このように、当初は、正法・像法法滅思想にとどまるが、南北朝末より隋、唐初に至るや、正像末三時の思想が表れてくる。天台の[[えじ|慧思]]は『立誓願文(りっせいがんもん)』に正法5百年、像法1千年、末法(まっぽう)1万年説を出し、[[しんぎょう|信行]]は末法時の三階(さんがい)仏教の実践を提唱し、[[どうしゃく|道綽]]は『[[あんらくしゅう|安楽集]]』に末法五濁悪世(ごじょくあくせ)時の念仏を主唱し、南山律(なんざんりつ)の[[どうせん|道宣]]は『[[しぶりつ|四分律]]行事鈔(ぎょうじしょう)』『[[ぞくこうそうでん|続高僧伝]]』などに像末時の戒律復興を説いている。また、[[ほっそうしゅう|法相宗]]の[[きき|窺基]]は『[[ぎりんじょう|大乗法苑義林章]]』などに、正法時には「教・行・証」の三つが整っているも、像法時は「教・行」のみで、末法時には「教」のみとなるから、仏道に専精するようにと説くに至る。<br> | このような正法・像法仏教衰滅思想を受けて、中国で、大成されるのが末法法滅思想である。このように、当初は、正法・像法法滅思想にとどまるが、南北朝末より隋、唐初に至るや、正像末三時の思想が表れてくる。天台の[[えじ|慧思]]は『立誓願文(りっせいがんもん)』に正法5百年、像法1千年、末法(まっぽう)1万年説を出し、[[しんぎょう|信行]]は末法時の三階(さんがい)仏教の実践を提唱し、[[どうしゃく|道綽]]は『[[あんらくしゅう|安楽集]]』に末法五濁悪世(ごじょくあくせ)時の念仏を主唱し、南山律(なんざんりつ)の[[どうせん|道宣]]は『[[しぶりつ|四分律]]行事鈔(ぎょうじしょう)』『[[ぞくこうそうでん|続高僧伝]]』などに像末時の戒律復興を説いている。また、[[ほっそうしゅう|法相宗]]の[[きき|窺基]]は『[[ぎりんじょう|大乗法苑義林章]]』などに、正法時には「教・行・証」の三つが整っているも、像法時は「教・行」のみで、末法時には「教」のみとなるから、仏道に専精するようにと説くに至る。<br> | ||
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2017年4月17日 (月) 04:46時点における版
末法
釈尊入滅後、その教法を実行しさとりうるものが時の経過とともに少なくなり、仏法が衰滅するという思想である。
インド
当初、インド方面で、真実正法(しょうぼう)1千年(500年)存在説(『雑阿含経』25、『五分律』29、パーリ『増支部経典』5の第8集の「六瞿曇弥品(くどんやほん)」、『大毘婆沙論』183など)が出され、のち、比丘の堕落、諸国王の仏教破壊などにより、正法は5百年(1千年)で滅し、相似(そうじ)の似而非(えせ)の仏法たる像法(ぞうぼう)が1千年または5百年行われるにとどまるとの説が出されてくる(『雑阿含経』32、『大宝積経』2・89、『大集経』賢護分(けんごぶん)、『大集経』56、『悲華経』7、『摩訶摩耶経(まかまやきょう)』下、『大乗三聚懺悔経(だいじょうさんじゅさんげきょう)』など)。
龍樹の『中論』の最初や『智度論』44、63、88など、部派仏教者を、仏滅後5百年の像似(ぞうじ)のにせ仏教者と貶称する。
中国
このような正法・像法仏教衰滅思想を受けて、中国で、大成されるのが末法法滅思想である。このように、当初は、正法・像法法滅思想にとどまるが、南北朝末より隋、唐初に至るや、正像末三時の思想が表れてくる。天台の慧思は『立誓願文(りっせいがんもん)』に正法5百年、像法1千年、末法(まっぽう)1万年説を出し、信行は末法時の三階(さんがい)仏教の実践を提唱し、道綽は『安楽集』に末法五濁悪世(ごじょくあくせ)時の念仏を主唱し、南山律(なんざんりつ)の道宣は『四分律行事鈔(ぎょうじしょう)』『続高僧伝』などに像末時の戒律復興を説いている。また、法相宗の窺基は『大乗法苑義林章』などに、正法時には「教・行・証」の三つが整っているも、像法時は「教・行」のみで、末法時には「教」のみとなるから、仏道に専精するようにと説くに至る。
三論の吉蔵の『三論玄義』『十二門論疏』などにも、正法5百年・像法1千年(5百年)・末法1万年説を示すが、慧思、信行、道綽、道宣などが、仏教像季(ぞうき)(像法時の末)末法衰滅史観に直接たち、実践的に仏法興隆を強く叫ぶ。とくに、信行は一仏一教によらない普真普正(ふしんふしょう)(あらゆる真・正なるもの)の三階仏法・普法(ふほう)の激しい実践修行を説き、道綽は浄土念仏易行道の実践を主張し、後の仏教界へ多く影響した。
日本
日本においても、以上の動向を受け、日本天台の祖最澄の『正像末文(しょうぞうまつもん)』やその著とされる『末法燈明記』などの末法思想の高揚がある。
とくに、『末法燈明記』によると、周(しゅう)の穆王(ぼくおう)53年仏入滅(前949)とする正五・像千・末万説は、後の皇円(こうえん)の『扶桑略記』29などに示す正千・像千・末万説とともに、平安朝中末期より鎌倉期の仏教界に、多大の影響を与えた。
円珍の『授菩薩戒儀記(じゅぼさつかいぎき)』、源信の『往生要集』、永観の『往生拾因』などより、とくに、鎌倉仏教者法然(源空)の『選択集』、栄西の『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』、貞慶の『愚迷発心集(ぐめいほっしんしゅう)』、高弁の『華厳仏光観法門(けごんぶつこうかんぼうもん)』、親鸞の『教行信証』、道元の『永平広録(えいへいこうろく)』、日蓮の『顕仏未来記(けんぶつみらいき)』などに至ると、末法仏教衰滅思想を痛感するなかに、正像末三時超越の絶対永遠不滅仏教の実践を主張する。
末法思想
仏滅ののち時代が下るにつれて、仏の教えが教えのとおりに実行されなくなるという歴史観にもとづき、時代を正像末の三時すなわち正法・像法・末法に分け、末世における仏法のありさまを説く思想。
正法・像法・末法の語は『大乗同性経』巻下などにあり、『雑阿含経』巻33には正像二時の説がある。窺基の『義林章』巻6本によれば、正法の時期は教と行と証の三を満足し、像法の時期は教行があって証がなく、末法の時期は教だけがあって行証がすたれるとする。正法と像法の時期については、正像各500年、正法500年像法1000年、正法1000年像法500年、正像各1000年などの説がある。
末法については、中国では一般に1万年とされ、日本でもこれを受けついだ。また『大方等大集経』巻55に、仏滅後5百年を解脱堅固、次の5百年を禅定三昧堅固、次の5百年を読調多聞堅固、次の5百年を造塔寺堅固、次の5百年を闘課堅固とする5つの5百年説があり、これが正像末の三時に配当されて各時期の仏教の実状の解釈とされた。
末法に入る年次を起算する根拠となる仏滅の年次については50数説があるが、中国では主として周の穆王53年〈B.C.949〉、同匡王4年〈B.C.609〉などの説があり、日本では一般に前者により、正像各千年説を採用して永承7年〈1052〉に末法に入るとされた。
中国では南北朝時代末から随代にかけて末法思想が成立し、唐代に一般化した。信行の三階教、道綽・善導の浄土教などは自らの教義が末法にかなった教えであることを主張した。
日本では奈良時代から次第に広まり、とくに永承7年を中心とする平安時代中期には当時の社会・政治情勢をも反映してひろく流布し、やがて浄土教の発達を促すことになった。鎌倉時代に入ると新仏教興起の基盤となり、法然・親鸞・日蓮などはいずれもこの末法思想に立脚してそれぞれ積極的に自己の教学をたてていった。