むみょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
無明
avidyā (S)、漢語「無明」(むめい、明無し)は目が見えない意味。
vidyā (S)は、「knowledge, learning, science, right knowledge」などと訳されているように、正しく知ることという意味の名詞である。その否定形であるから、正しく知ることができないという意味になる。その意味から、「本能」という解釈をすることもある。
vidyāの本である動詞は√vidであり、「know, understand, learn, find out」である。
仏教語としての無明(むみょう)は、人生や事物の真相に明らかでないこと。すべては無常であり固定的なものはなにもない(無我)という事実に無知なこと。この無明がもとで固執の念(我見)をおこし、さらに種々の煩悩の発生の元となる。
迷いの根本で、愚癡(moha)とも言われ、貪欲、瞋恚と合わせて三毒と言われる。
また、十二因縁の第1支とされ、無明を縁として行・識・…・生・老死の諸法が生じ、無明が滅すれば、それらの諸法は滅するという。
初期仏教
無明こそ最大の汚れである。比丘たちよ、この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。 法句経 243
倶舎論
無明とは能く真実の義を見るを障うるが故に称して瞑となす。 〔T29-161c〕
毘婆沙論
無明について、不達(ふたつ)・不解(ふげ)・不了(ふりょう)と定義している。
瑜伽師地論
諸々の事象を正しく了知しないことを無明とする。
さらに「相応無明」と「独行無明」の2種を説く。相応無明は、貪など他の煩悩と結合するもの。独行無明(または不共(ふぐう)無明)は、他の煩悩と結合せず、ただ四諦などの道理を知らず愚闇なことをいう。
勝鬘経
相応無明を四住地の煩悩とし、独行・不共無明を無始無明住地として一切煩悩の根本とみなした。
起信論
起信論では、無明を根本と枝末の二つに分ける。法界の理に迷う元初の一念を根本無明と言い、根本無明によって三細六麁の惑業を起すのを枝末無明と言う。
小乗仏教の無明は、枝末無明に限っており、根本無明を問わない。真如を会せず、法執を断じないからである。
一法界に達せざるを以ての故に、心に相応せずして、忽然として念の起こるを名づけて無明となす。 〔T32-577c〕
大乗義章
癡闇之心體無慧明故。曰無明。〔T44 p.547a〕
これから、無明の体は愚痴の煩悩である。愚痴であるから、一切の業煩悩を起こす。
摩訶止観
中国の天台大師智顗は摩訶止観 の中で、空・化・中の3諦・3観に応じて見思(けんし)・塵沙(じんじゃ)・無明の三惑を立てている。