しん
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
目次
心
「こころ」とも訓じられる。(citta चित्त、hRdaya हृदय (skt.))
「心」と漢訳された原語には多くがあり、「心(citta)」「意(manas)」「識(vijJaana, vijJapti)」などが挙げられ、同義異名であるとされる。
citta
種々の(citra)対象を認識するから、集める(cinoti)から、と語源的に解釈される。
前者の場合は六識を、後者の場合、特に唯識派のいう阿頼耶識を意味する。これは、過去の経験を集め貯蔵しているからで、それが未来の諸法を起こしていくところから「集起心」といわれたりする。
manas
思慮する働きであり、「思量心」といわれる。唯識派では「末那識」を指す。
vijJaana,vijJapti
「了別」と訳されるもので、認知する働きのことである。「了別心」「縁慮心(えんりょしん)」「慮知心(りょちしん)」といわれる。唯識派では第六識の意識をいう。
hRdaya
もともとは心臓を意味し、この意の心を肉団心と言い、通常は肉体の心臓部分を指す。また中心・心髄の意味も持っている。『般若心経』の「心」はhRdayaであり、核心・心髄の意味である。
その他の心
心を構成する重要な要素である感情や意志は、人間存在を五蘊ではその中の受と行に当たり、後世、心所の中に分析されている。
信
「zraddhaa」の訳。十地法では「浄信」(prasaada)、「勝解」(adhimukti)、「信解」(avakalpanaa)を掲げているが、『十住毘婆沙論』では信にまとめられている。
zraddhaa
インドで仏教以前から用いられた単語で、仏教では「信」と漢訳した。
冷静で客観的な信頼を意味する。解脱に必要な五根や五力や七力の最初に数えられ、また心所の一つとして大善地法に配当されている。「信」は疑惑を除き悟りへの基盤であると考える。
prasaada
「浄信」「澄浄(ちょうじょう)」「信心」などと漢訳する。心が清まり澄むことで、そこには「信」が看取される。
adhimukti
「信解」「勝解(しょうげ)」「信楽」などと漢訳される。智慧により理解が進んで確立される信頼で、そこにはもはや疑惑がない。