操作

ちべっとぶっきょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

チベット仏教

7世紀前半に仏教はチベットに伝えられ、ティソンデツェン王(742-797)の779年、サムイェー大僧院の本堂完成の折、インドのナーランダー大僧院(那爛陀寺(ならんだじ))の長老シャーンタラクシタによって6人のチベット人に説一切有部具足戒が授けられ、僧伽が発足した。以来、訳経事業が始められ、大部のチベット大蔵経が作られた。
現象世界を時間と空間とに分け、それぞれを実体視する「無明」によって執着し、苦しむものに「無自性」を説き、利他行を勧める中観の教えが普及した。

786年に敦煌が占領されると、禅僧摩訶衍がチベットに招かれ、不思不観の坐禅による解脱を説いて流行した。王はこの教えの反社会性を憂え、シャーンタラクシタの弟子カマラシーラを794年に招き、摩訶衍を折伏(しゃくぶく)させて中観の教義を正統とした。摩訶衍の禅は利己的救済に終始して利他行を欠くから大乗ではなく、禅定正見がないため「[般若」の完成がなく「無自性」が悟れないからとされた。
797年頃カマラシーラは暗殺されたが、843年の王朝分裂まで仏教は栄え、訳経事業も824年には峠を越えた。王朝の統制がなくなると、如来蔵(にょらいぞう)思想を基盤にした当時流行の性瑜伽(ゆが)を説く在家(ざいけ)密教、すなわち、タントラ仏教が中国系の禅と共に流行した。

11世紀になると、戒律復興運動が起こり、僧伽が再興され在家密教がしりぞけられ、顕教による修習が盛んになり、般若経 の解釈学、唯識如来蔵思想の研究、中観2派の論争などが続いた。
他方、新しい密教を学ぶものも現れ、当時インドから入国して仏教界を指導したアティーシャ(982-1054)も密教を勧めた。当初警戒された密教も次第に僧伽に受け入れられる形に改められていったので、顕教と併修される傾向が生じた。

その頃ツォンカパが現れ、顕教の中心に中観帰謬(きびゅう)論証派の教義を据え、密教の如来蔵思想に基づく理解を改めて、中観の「無自性」を深く観ずるための密教的禅定体系に変質する注釈を書き上げ、性的意義を除き戒律に背くことのない形で実践されるように行者の資格と修習の順序を厳しく規定した。
このようにしてインド仏教が目ざした小乗・大乗・密教を統合した修道体系を組織してチベット仏教正統派の「黄教(こうきょう)」「浄行派(じょうぎょうは)」(ゲルク派)を1409年に立宗した。1642年にダライ・ラマ政権が成立すると、この派が政治的にも正統派として擁立された。