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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(3.インドの大乗僧)
(菩薩大士)
 
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ぼさつ、bodhisattva बॊधिसत्त्व(sanskrit)<br>
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<big>bodhisattva बॊधिसत्त्व</big> (S)<br>
[[ぶっきょう|仏教]]の中で、[[ぶっだ|仏陀]]にななろうとする'''修行者'''を言う。サンスクリット語のボディサットバ(bodhi-sattva)は、漢訳された場合「菩提薩埵」となる。「菩提」は「覚」であり、「薩埵」は「生ける者」の意味で[[しゅじょう|衆生]]とか[[うじょう|有情]]と意訳された。このため、「悟りを求める人」と「悟りを具えた人」の二つの意味で呼ばれるので、インドでの'''菩薩'''には2種類の菩薩が、さらに中国では「インドの大乗仏教の僧」を'''菩薩'''と呼んだから、同じ'''菩薩'''に3種類あるから、注意が必要である。
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 [[ぶっきょう|仏教]]の中で、[[ぶっだ|仏陀]]にななろうとする'''修行者'''を言う。サンスクリット語のボディサットバ(bodhi-sattva)は、漢訳された場合「菩提薩埵」となる。「菩提」は「覚」であり、「薩埵」は「生ける者」の意味で[[しゅじょう|衆生]]とか[[うじょう|有情]]と意訳された。このため、「悟りを求める人」と「悟りを具えた人」の二つの意味で呼ばれるので、インドでの'''菩薩'''には2種類の菩薩が、さらに中国では「インドの大乗仏教の僧」を'''菩薩'''と呼んだから、同じ'''菩薩'''に3種類あるから、注意が必要である。<br>
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 元々、菩薩という呼び名は、仏伝文学において、'''成道以前の釈尊の呼び名'''であった。
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 ボーディ・サットヴァ(bodhi-sattva)の音写語で菩提薩埵とも書かれる。このうちbodhi(菩提)はbuddha(仏陀)と同じ語源の、√budh(目覚める)よりなる「さとり」を意味する語であり、sattva(薩埵)は√asから造られた「存在・有」などを表わす語で、現状以前の漢訳には普通「衆生」と訳される。<br>
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 また意味のうえから菩薩は古くは漢訳で「開士・覚有情」とも訳された。菩薩という漢訳の音写語は[[くまらじゅう|鳩摩羅什]](Kumārajīva, 344-413)によって徹底されたものとみなされているが、インドから中国に仏典が伝わる際に音の変化が生じ bodhi-sattva→bot satとなり、それが菩薩(扶薩)に移されたと見る説もある。<br>
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 菩薩の語は仏教で用いられた独自の用語であり、ジャータカを含んだ広義の仏伝文学の系統で生まれたものと考えられている。『[[ろんじ|論事]](Kathāvatthu)』や『[[ほっちろん|発智論]]』(漢訳のみ)などに菩薩が論及されていることから、前2世紀には菩薩の観念があったと考えられている。この語義についてはいくつかの説がある。<br>
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 干潟龍祥は[[ジャータカ]]を中心にその起源を論じ、のちの仏教徒が仏陀を見上げて、その前生を探って考えついた名であって「菩提を求めている有情」で「菩提を得ることに確定している有情」が菩薩であるとしている。<br>
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 山田龍城は譬喩経典にもとづいて、釈尊の正覚の背景となる実践道を讃嘆し、これを称揚するために釈尊その人を讃仰する人びとのあいだから、釈尊の前生を語るにあたって「菩提を求める人」として菩薩の名が説き始められたと見ている。<br>
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 菩薩の語を bodhi と sattva の複合語とみて、これを'''依主釈と解すると「菩提を求める有情」の義'''となるが、これを'''持業釈とみるときは「さとりを有する有情」'''となる。<br>
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 西義雄はこの「さとりを有する有情」からさらに「さとりを他に与えて、他をさとらせる有情」としての菩薩の字義を論じている。<br>
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 平川彰は菩薩の観念の出現を、過去世にバラモンであった釈尊に燃灯仏が成仏の予言(vyākaraṇa、[[じゅき|授記]])を与えるという仏伝文学中の「[[ねんとうぶつ|燃灯仏]]授記」に求めて、授記を得たものとそうでないものを区別する必要から菩薩の語が作られたとしている。<br>
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 部派仏教では、釈尊の成道以前の修行時代と過去世の前生としての釈尊、それに将来仏としての弥勒菩薩と過去仏の菩薩の時代を考えるが、いずれも仏陀の正覚以前の呼び名である。仏伝には釈迦菩薩が三阿僧祇劫の修行を行じ、十地の位を登って一生補処にいたり、次生に成仏する事を述べている。<br>
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 これに対して大乗経典に登場する菩薩は、信仰の対象としての大菩薩を除いてほとんどが一般の人びとと考えられている。仏伝文学における菩薩は大乗では衆生救済のための菩薩へと展開され、上には菩提を求め下には衆生を教化する、特に'''「自未度先度他」の利他行としての菩薩行が強調'''されている。<br>
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 またこの菩薩の名は大乗の論師の称号としても、あるいは中国の訳経僧や鎌倉期の高僧の尊称としても付せられることがある。
  
 
===前提概念===
 
===前提概念===
[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]運動が起こった背景にはさまざまな理由が考えられるが、[[しゃか|釈迦]]と同じ修行をしていた[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]の僧侶が誰も'''仏陀'''に成れなかったことから起こった運動とも考えられる。<br>
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 [[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]運動が起こった背景にはさまざまな理由が考えられるが、[[しゃか|釈迦]]と同じ修行をしていた[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]の僧侶が誰も'''仏陀'''に成れなかったことから起こった運動とも考えられる。<br>
その大きな要因を二つ考え、欠けた者たちを次のように呼んでいた。<br>
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 その大きな要因を二つ考え、欠けた者たちを次のように呼んでいた。<br>
#.'''仏陀'''の指導がなければ'''仏陀'''にはなれない。独覚([[どっかく]])
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#.'''仏陀'''の指導がなければ'''仏陀'''にはなれない。([[どっかく|独覚]])
#.修行者に[[りたぎょう|利他行]]が欠けているから'''仏陀'''になれない。[[あらかん|阿羅漢]]<br>大乗仏教ではどちらも'''仏陀'''になれないとされた。
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#.修行者に[[りたぎょう|利他行]]が欠けているから'''仏陀'''になれない。[[あらかん|阿羅漢]]
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大乗仏教ではどちらも'''仏陀'''になれないとされた。
  
 
===菩薩の語義===
 
===菩薩の語義===
*菩提(智慧)を求めて修行し菩提を得ることが確定している有情(sattva)‥‥干潟龍祥
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*[[ぼだい|菩提]]([[ちえ|智慧]])を求めて修行し菩提を得ることが確定している有情(sattva)‥‥干潟龍祥
*その本質として菩提(=完全なる智慧)を持つ人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ハル・ダヤル
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*その本質として菩提(=完全なる智慧)を持つ人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ハル・ダヤル
 
*菩提が蔵せられている人
 
*菩提が蔵せられている人
*潜在的な覚智の人格化されたもの
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*潜在的な覚智の人格化されたもの([[ほっしん|法身]])
*菩提に献身し、執着している人
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*菩提に献身し、[[しゅうじゃく|執着]]している人
 
*精力が菩提に向けられている人
 
*精力が菩提に向けられている人
 
*チベットでは「byan chub sams dpah」と解釈して「勇猛、勇士」とする
 
*チベットでは「byan chub sams dpah」と解釈して「勇猛、勇士」とする
*菩提と薩埵とを縁じて境となすが故に菩薩と名づく。自利利他の大願を具足して、大菩提を求め、有情を利するが故なり    〔『[[ぶつじきょうろん|仏地経論]]』巻2 T26-300a〕
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*菩提と薩埵とを縁じて[[きょう|境]]となすが故に菩薩と名づく。[[じりりた|自利利他]]の大願を具足して、大菩提を求め、有情を利するが故なり    〔『[[ぶつじきょうろん|仏地経論]]』巻2 T26-300a〕
 
 様々な解釈があるが、2番目の説が初期の菩薩の意味としてはもっとも妥当であろう。中国に入ってからは、最初の干潟博士の解釈が主流となったと考えられる。
 
 様々な解釈があるが、2番目の説が初期の菩薩の意味としてはもっとも妥当であろう。中国に入ってからは、最初の干潟博士の解釈が主流となったと考えられる。
  
 
===1.修行者としての菩薩===
 
===1.修行者としての菩薩===
初期から、悟りを開く前の修行時代の'''仏陀'''のことを'''菩薩'''と呼んでいた。特に'''釈迦'''の前生物語である'''[[ほんじょうわ|本生話]]'''([[ジャータカ]])では、釈迦の前生の姿を'''菩薩'''と呼んでいることが初出である。<br>
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 初期から、悟りを開く前の修行時代の'''仏陀'''のことを'''菩薩'''と呼んでいた。特に'''釈迦'''の前生物語である'''[[ほんじょうわ|本生話]]'''([[ジャータカ]])では、釈迦の前生の姿を'''菩薩'''と呼んでいることが初出である。<br>
この菩薩の代表が、次に'''仏陀'''となると伝えられる[[みろく|弥勒]]菩薩である。'''弥勒菩薩'''は56億8千万年の修行を経て、この世に'''仏陀'''として現れるとされる。<br>後に[[あみだぶつ|阿弥陀仏]]となった[[ほうぞうぼさつ|法蔵菩薩]]などもこの代表である。
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 この菩薩の代表が、次に'''仏陀'''となると伝えられる[[みろく|弥勒]]菩薩である。'''弥勒菩薩'''は56億8千万年の修行を経て、この世に'''仏陀'''として現れるとされる。<br>後に[[あみだぶつ|阿弥陀仏]]となった[[ほうぞうぼさつ|法蔵菩薩]]などもこの代表である。
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 ハリバドラが『八千頌般若経』第一章に最初に「'''菩薩大士'''」(bodhisattvo mahāsattvaḥ)ということばがあらわれてくる個所においてであるが、そこで彼はさらに重要なことをいっている。「菩薩」を自利の完成である「さとりに志向する者」だといったあとで、彼は、「それだけでは声聞も(菩薩)となってしまうであろう、というわけでマハーサットヴァ(大士)という」とつけ加える。そして「大士」(偉大な心をもった者)とは「偉大なる利他の完成に対する志向をもつ者」であるといい、さらに、そのような偉大なる利他への志向は外教の賢者にもありうるから菩薩という仏教の修行者をあらわす語とともに用いるのだ、といっている。要するに、ハリバドラは、自利としてのさとりに志向する小乗仏教の声聞および仏教以外の利他の賢者との両者から区別するために、自己のさとりと偉大な利他の完成とに志向する大乗の菩薩のことを「菩薩大士」と呼ぶ、といっているのである。
  
 
===2.現世で活動するための菩薩===
 
===2.現世で活動するための菩薩===
すでに悟りを得ているにもかかわらず、'''仏陀'''となることを否定した'''菩薩'''もいる。これは'''仏陀'''自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば'''仏陀'''の手足となって活動する者を'''菩薩'''と呼ぶ。<br>
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 すでに悟りを得ているにもかかわらず、'''仏陀'''となることを否定した'''菩薩'''もいる。これは'''仏陀'''自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば'''仏陀'''の手足となって活動する者を'''菩薩'''と呼ぶ。<br>
この代表者が、[[しゃかさんぞん|釈迦三尊]]の[[もんじゅぼさつ|文殊菩薩]]と[[ふげんぼさつ|普賢菩薩]]であろう。彼らは、'''釈迦'''の''はたらき''を象徴するたけでなく、''はたらきそのもの''として活動するのである。他にも、[[かんのんぼさつ|観音菩薩]]、[[せいしぼさつ|勢至菩薩]]なども、自らの'''成仏'''とはかかわりなく、活動を続ける'''菩薩'''である。<br>
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 この代表者が、[[しゃかさんぞん|釈迦三尊]]の[[もんじゅぼさつ|文殊菩薩]]と[[ふげんぼさつ|普賢菩薩]]であろう。彼らは、'''釈迦'''の''はたらき''を象徴するたけでなく、''はたらきそのもの''として活動するのである。他にも、[[かんのんぼさつ|観音菩薩]]、[[せいしぼさつ|勢至菩薩]]なども、自らの'''成仏'''とはかかわりなく、活動を続ける'''菩薩'''である。<br>
むしろ、'''成仏'''を''目的とすることさえ否定''することが、'''仏陀'''となることの条件であるとさえ思われる。
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 むしろ、'''成仏'''を''目的とすることさえ否定''することが、'''仏陀'''となることの条件であるとさえ思われる。
  
 
===3.インドの大乗僧===
 
===3.インドの大乗僧===
中国では、インドの有様が詳細に伝わったわけではないので、ことに初期大乗仏教の学僧たちを'''菩薩'''と尊称した。[[りゅうじゅぼさつ|龍樹菩薩]]、[[せしんぼさつ|世親菩薩]]などとするのがこれである。<br>
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 中国では、インドの有様が詳細に伝わったわけではないので、ことに初期大乗仏教の学僧たちを'''菩薩'''と尊称した。[[りゅうじゅぼさつ|龍樹菩薩]]、[[せしんぼさつ|世親菩薩]]などとするのがこれである。<br>
注意が必要とされるのは、[[みろくぼさつ|弥勒菩薩]]であり、未来仏の菩薩としての'''弥勒菩薩'''と''[[ゆがしじろん|瑜伽師地論]]''を編纂した'''弥勒菩薩'''と二人の菩薩がいるので、注意が必要である。
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 注意が必要とされるのは、[[みろくぼさつ|弥勒菩薩]]であり、未来仏の菩薩としての'''弥勒菩薩'''と''[[ゆがしじろん|瑜伽師地論]]''を編纂した'''弥勒菩薩'''と二人の菩薩がいる。
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;WikiPediaから転送
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==本生(仏伝)の菩薩==
{{:Mbwiki:菩薩}}
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 菩薩の語は初期の仏教資料のなかでは『小部』を除く4ニカーヤにその用例が見られる。しかしこれらの仏伝の記述中に登場する菩薩の語も、パーリの『中部』や『相応部』に相当する漢訳阿含経典には、後代の付加と思われる部分を除いて現われないことからも、のちに挿入されたものと考えられている(この場合に、『スッタニパータ』の「ナーラカ経」にアシ夕仙の占相という有名な仏伝の記述に菩薩の語が見えることが注目されている)。また律蔵に現われる菩薩の語も後世の増補の部分に見られることが多いために、初期仏教のなかには菩薩の用例がなかったものと推定されている。山田博士は菩薩の思想の起こりとして「本生(ジャータカ)の菩薩」をあげ、その発展の段階を<br>
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 (1)成道前の修行期の釈尊としての菩薩。<br>
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 (2)一般に本生としての菩薩。<br>
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 (3)特別の修行道を有するにいたった菩薩。<br>
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 (4)大乗の菩薩
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の4種の段階に分けている。現存するパーリ『ジャータカ』547種に登場する菩薩はすべて釈尊の前生を表わしており、そこではさとりを得る以前の修行者としてボーディ・サッタ、あるいはマハー・サッタと呼ばれている。
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==大乗の菩薩==
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 「菩提を求める有情」としての菩薩は大乗経典になると、無量無数の衆生を完全な[[ねはん|涅槃]]に導きいれるものが菩薩であると考えられた。大乗仏教は仏陀に対する信仰をもととして、これまでの仏伝文学のなかで説かれた釈尊の成仏のための修行を[[ろっぱらみつ|六波羅蜜]]としてとりいれ(四・六・十波羅蜜の説は部派仏教のなかにある)、これを大乗の菩薩の修行道とした。そしてすべての人びとが菩薩たりうるとしたところにその特色があり、そこでは[[くう|空]]の立場に立った[[ぼさつぎょう|菩薩行]]が主張された。<br>
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 仏陀に対する信仰は救済仏としてのさまざまな仏陀を生みだし、同時にすでにさとりを得ている菩薩が一切衆生救済のためにこの世に出現するという、いわゆる大悲闡提の菩薩観はさまざまな大菩薩信仰を生みだした。『[[だいちどろん|大智度論]]』には菩薩に生身・法身、小菩薩・大菩薩の別があることを述べ、畜生道ではサーガラ龍王などは菩薩道を体得しており、鬼神道でも夜叉や鬼子母は見道を得た大菩薩であるとする。経典には大乗の菩薩に在家・出家の別があることが述べられることがある。<br>
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 大乗仏教の最初期には大乗の菩薩に在家・出家の別を説かなかったが、この区別は大乗仏教が展開する過程で生じたもので、制度としてのものではなく生活面の相違から生まれたものらしい。部派仏教のサンガ(sańgha)は比丘・比丘尼によって構成されていたことからも、大乗の出家菩薩も広義には在家と考えられている。このうち在家菩薩として著名なものは『[[ゆいまきょう|維摩経]]』に登場する維摩居士(Vimalakīrti)であるが、『[[はんじゅざんまいきょう|般舟三昧経]]』『[[ほけきょう|法華経]]』などの大乗経典に記される「Bhadrapāla(賢護)などの五百の菩薩」は在家菩薩として実在の人物のごとくみなされている。<br>
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 出家菩薩としては文殊師利(Mañjuśri)菩薩があげられる。文殊師利は法王子(kumārabhūta, 童真)の名の示すように、
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:初発心より婬欲を断じて童真行を修する。〔『大品般若経』巻1〕
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出家菩薩の理想像と考えられている。この菩薩の集団は、部派仏教のサンガに対して、ガナ(gaṇa)と呼ばれていたようである。<br>
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 大乗の菩薩の受けたもつ戒は、大乗戒あるいは仏性戒ともいわれ、それは菩薩の戒波羅蜜の内容とされる十善戒をいう。やがて従来の律蔵からとりいれられた種々の戒が、出家菩薩のための戒となり、新たな大乗戒が説かれるようになった。そして時代が下るに従って、声聞の二百五十戒も大乗の出家菩薩の戒として重視されるようになった。<br>
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 また[[ぼだいしん|菩提心]]を発した菩薩が発願する[[しぐぜいがん|四弘誓願]]は菩薩の総願といわれ、これに対して[[ほうぞうぼさつ|法蔵菩薩]]の四十八願や[[ふげんぼさつ|普賢菩薩]]の十大願は[[べつがん|別願]]といわれる。
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cf. [[せいがん|誓願]]、[[はらみつ|波羅蜜]]
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===菩薩大士===
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: '''菩薩大士'''はすべてのものを理解するために、執着しないということにおいて、無上にして完全なさとりをさとるのである。さとりを目的とする点で大士は菩薩と呼ばれる。有情の大集団、有情の大群集の上首たることを達成するから菩薩は'''大士'''と呼ばれる。
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: '''菩薩大士'''といわれるのは(こういうわけです)。かのさとりを求める心([[ぼだいしん|菩提心]])、全知者性を求める心、汚れのない心、比類のない心、至高なる心であって、すべての声聞や独覚と共通しないもの、このような心にさえ彼は執着せず、こだわらないのです。なぜかといいますと、その全知者性を求める心は汚れがなく、こだわりがないからです。その汚れがなく、こだわりのない全知者性を求める心にさえ彼は執着せず、こだわりません。そういう意味で'''菩薩大士'''という名で呼ばれるのです。
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: 世尊よ、物質的存在を取得せず、同様に感覚、表象、意欲を、そして思惟を取得しないこと、それが'''菩薩大士'''の知恵の完成である、と知らねばなりません。また、如来だけがもつ十種の知力([[じゅうりき|十力]])、如来だけがもつ四種のおそれなき自信(四[[むしょい|無所畏]])、仏陀だけがもつ十八種の精神的特性(十八[[ふぐうほう|不共法]])を完成しないで、途中で完全な涅槃にはいってしまわないこと、これも、世尊よ、したがって、'''菩薩大士'''の知恵の完成である、と知るべきです。    〔八千頌般若経〕

2024年12月16日 (月) 15:59時点における最新版

菩薩

bodhisattva बॊधिसत्त्व (S)
 仏教の中で、仏陀にななろうとする修行者を言う。サンスクリット語のボディサットバ(bodhi-sattva)は、漢訳された場合「菩提薩埵」となる。「菩提」は「覚」であり、「薩埵」は「生ける者」の意味で衆生とか有情と意訳された。このため、「悟りを求める人」と「悟りを具えた人」の二つの意味で呼ばれるので、インドでの菩薩には2種類の菩薩が、さらに中国では「インドの大乗仏教の僧」を菩薩と呼んだから、同じ菩薩に3種類あるから、注意が必要である。
 元々、菩薩という呼び名は、仏伝文学において、成道以前の釈尊の呼び名であった。

 ボーディ・サットヴァ(bodhi-sattva)の音写語で菩提薩埵とも書かれる。このうちbodhi(菩提)はbuddha(仏陀)と同じ語源の、√budh(目覚める)よりなる「さとり」を意味する語であり、sattva(薩埵)は√asから造られた「存在・有」などを表わす語で、現状以前の漢訳には普通「衆生」と訳される。
 また意味のうえから菩薩は古くは漢訳で「開士・覚有情」とも訳された。菩薩という漢訳の音写語は鳩摩羅什(Kumārajīva, 344-413)によって徹底されたものとみなされているが、インドから中国に仏典が伝わる際に音の変化が生じ bodhi-sattva→bot satとなり、それが菩薩(扶薩)に移されたと見る説もある。
 菩薩の語は仏教で用いられた独自の用語であり、ジャータカを含んだ広義の仏伝文学の系統で生まれたものと考えられている。『論事(Kathāvatthu)』や『発智論』(漢訳のみ)などに菩薩が論及されていることから、前2世紀には菩薩の観念があったと考えられている。この語義についてはいくつかの説がある。
 干潟龍祥はジャータカを中心にその起源を論じ、のちの仏教徒が仏陀を見上げて、その前生を探って考えついた名であって「菩提を求めている有情」で「菩提を得ることに確定している有情」が菩薩であるとしている。
 山田龍城は譬喩経典にもとづいて、釈尊の正覚の背景となる実践道を讃嘆し、これを称揚するために釈尊その人を讃仰する人びとのあいだから、釈尊の前生を語るにあたって「菩提を求める人」として菩薩の名が説き始められたと見ている。
 菩薩の語を bodhi と sattva の複合語とみて、これを依主釈と解すると「菩提を求める有情」の義となるが、これを持業釈とみるときは「さとりを有する有情」となる。
 西義雄はこの「さとりを有する有情」からさらに「さとりを他に与えて、他をさとらせる有情」としての菩薩の字義を論じている。
 平川彰は菩薩の観念の出現を、過去世にバラモンであった釈尊に燃灯仏が成仏の予言(vyākaraṇa、授記)を与えるという仏伝文学中の「燃灯仏授記」に求めて、授記を得たものとそうでないものを区別する必要から菩薩の語が作られたとしている。
 部派仏教では、釈尊の成道以前の修行時代と過去世の前生としての釈尊、それに将来仏としての弥勒菩薩と過去仏の菩薩の時代を考えるが、いずれも仏陀の正覚以前の呼び名である。仏伝には釈迦菩薩が三阿僧祇劫の修行を行じ、十地の位を登って一生補処にいたり、次生に成仏する事を述べている。
 これに対して大乗経典に登場する菩薩は、信仰の対象としての大菩薩を除いてほとんどが一般の人びとと考えられている。仏伝文学における菩薩は大乗では衆生救済のための菩薩へと展開され、上には菩提を求め下には衆生を教化する、特に「自未度先度他」の利他行としての菩薩行が強調されている。
 またこの菩薩の名は大乗の論師の称号としても、あるいは中国の訳経僧や鎌倉期の高僧の尊称としても付せられることがある。

前提概念

 大乗仏教運動が起こった背景にはさまざまな理由が考えられるが、釈迦と同じ修行をしていた部派仏教の僧侶が誰も仏陀に成れなかったことから起こった運動とも考えられる。
 その大きな要因を二つ考え、欠けた者たちを次のように呼んでいた。

  1. .仏陀の指導がなければ仏陀にはなれない。(独覚)
  2. .修行者に利他行が欠けているから仏陀になれない。阿羅漢

大乗仏教ではどちらも仏陀になれないとされた。

菩薩の語義

  • 菩提智慧)を求めて修行し菩提を得ることが確定している有情(sattva)‥‥干潟龍祥
  • その本質として菩提(=完全なる智慧)を持つ人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ハル・ダヤル
  • 菩提が蔵せられている人
  • 潜在的な覚智の人格化されたもの(法身
  • 菩提に献身し、執着している人
  • 精力が菩提に向けられている人
  • チベットでは「byan chub sams dpah」と解釈して「勇猛、勇士」とする
  • 菩提と薩埵とを縁じてとなすが故に菩薩と名づく。自利利他の大願を具足して、大菩提を求め、有情を利するが故なり    〔『仏地経論』巻2 T26-300a〕

 様々な解釈があるが、2番目の説が初期の菩薩の意味としてはもっとも妥当であろう。中国に入ってからは、最初の干潟博士の解釈が主流となったと考えられる。

1.修行者としての菩薩

 初期から、悟りを開く前の修行時代の仏陀のことを菩薩と呼んでいた。特に釈迦の前生物語である本生話(ジャータカ)では、釈迦の前生の姿を菩薩と呼んでいることが初出である。
 この菩薩の代表が、次に仏陀となると伝えられる弥勒菩薩である。弥勒菩薩は56億8千万年の修行を経て、この世に仏陀として現れるとされる。
後に阿弥陀仏となった法蔵菩薩などもこの代表である。

 ハリバドラが『八千頌般若経』第一章に最初に「菩薩大士」(bodhisattvo mahāsattvaḥ)ということばがあらわれてくる個所においてであるが、そこで彼はさらに重要なことをいっている。「菩薩」を自利の完成である「さとりに志向する者」だといったあとで、彼は、「それだけでは声聞も(菩薩)となってしまうであろう、というわけでマハーサットヴァ(大士)という」とつけ加える。そして「大士」(偉大な心をもった者)とは「偉大なる利他の完成に対する志向をもつ者」であるといい、さらに、そのような偉大なる利他への志向は外教の賢者にもありうるから菩薩という仏教の修行者をあらわす語とともに用いるのだ、といっている。要するに、ハリバドラは、自利としてのさとりに志向する小乗仏教の声聞および仏教以外の利他の賢者との両者から区別するために、自己のさとりと偉大な利他の完成とに志向する大乗の菩薩のことを「菩薩大士」と呼ぶ、といっているのである。

2.現世で活動するための菩薩

 すでに悟りを得ているにもかかわらず、仏陀となることを否定した菩薩もいる。これは仏陀自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ。
 この代表者が、釈迦三尊文殊菩薩普賢菩薩であろう。彼らは、釈迦はたらきを象徴するたけでなく、はたらきそのものとして活動するのである。他にも、観音菩薩勢至菩薩なども、自らの成仏とはかかわりなく、活動を続ける菩薩である。
 むしろ、成仏目的とすることさえ否定することが、仏陀となることの条件であるとさえ思われる。

3.インドの大乗僧

 中国では、インドの有様が詳細に伝わったわけではないので、ことに初期大乗仏教の学僧たちを菩薩と尊称した。龍樹菩薩世親菩薩などとするのがこれである。
 注意が必要とされるのは、弥勒菩薩であり、未来仏の菩薩としての弥勒菩薩瑜伽師地論を編纂した弥勒菩薩と二人の菩薩がいる。

本生(仏伝)の菩薩

 菩薩の語は初期の仏教資料のなかでは『小部』を除く4ニカーヤにその用例が見られる。しかしこれらの仏伝の記述中に登場する菩薩の語も、パーリの『中部』や『相応部』に相当する漢訳阿含経典には、後代の付加と思われる部分を除いて現われないことからも、のちに挿入されたものと考えられている(この場合に、『スッタニパータ』の「ナーラカ経」にアシ夕仙の占相という有名な仏伝の記述に菩薩の語が見えることが注目されている)。また律蔵に現われる菩薩の語も後世の増補の部分に見られることが多いために、初期仏教のなかには菩薩の用例がなかったものと推定されている。山田博士は菩薩の思想の起こりとして「本生(ジャータカ)の菩薩」をあげ、その発展の段階を
 (1)成道前の修行期の釈尊としての菩薩。
 (2)一般に本生としての菩薩。
 (3)特別の修行道を有するにいたった菩薩。
 (4)大乗の菩薩 の4種の段階に分けている。現存するパーリ『ジャータカ』547種に登場する菩薩はすべて釈尊の前生を表わしており、そこではさとりを得る以前の修行者としてボーディ・サッタ、あるいはマハー・サッタと呼ばれている。

大乗の菩薩

 「菩提を求める有情」としての菩薩は大乗経典になると、無量無数の衆生を完全な涅槃に導きいれるものが菩薩であると考えられた。大乗仏教は仏陀に対する信仰をもととして、これまでの仏伝文学のなかで説かれた釈尊の成仏のための修行を六波羅蜜としてとりいれ(四・六・十波羅蜜の説は部派仏教のなかにある)、これを大乗の菩薩の修行道とした。そしてすべての人びとが菩薩たりうるとしたところにその特色があり、そこではの立場に立った菩薩行が主張された。
 仏陀に対する信仰は救済仏としてのさまざまな仏陀を生みだし、同時にすでにさとりを得ている菩薩が一切衆生救済のためにこの世に出現するという、いわゆる大悲闡提の菩薩観はさまざまな大菩薩信仰を生みだした。『大智度論』には菩薩に生身・法身、小菩薩・大菩薩の別があることを述べ、畜生道ではサーガラ龍王などは菩薩道を体得しており、鬼神道でも夜叉や鬼子母は見道を得た大菩薩であるとする。経典には大乗の菩薩に在家・出家の別があることが述べられることがある。
 大乗仏教の最初期には大乗の菩薩に在家・出家の別を説かなかったが、この区別は大乗仏教が展開する過程で生じたもので、制度としてのものではなく生活面の相違から生まれたものらしい。部派仏教のサンガ(sańgha)は比丘・比丘尼によって構成されていたことからも、大乗の出家菩薩も広義には在家と考えられている。このうち在家菩薩として著名なものは『維摩経』に登場する維摩居士(Vimalakīrti)であるが、『般舟三昧経』『法華経』などの大乗経典に記される「Bhadrapāla(賢護)などの五百の菩薩」は在家菩薩として実在の人物のごとくみなされている。
 出家菩薩としては文殊師利(Mañjuśri)菩薩があげられる。文殊師利は法王子(kumārabhūta, 童真)の名の示すように、

初発心より婬欲を断じて童真行を修する。〔『大品般若経』巻1〕

出家菩薩の理想像と考えられている。この菩薩の集団は、部派仏教のサンガに対して、ガナ(gaṇa)と呼ばれていたようである。
 大乗の菩薩の受けたもつ戒は、大乗戒あるいは仏性戒ともいわれ、それは菩薩の戒波羅蜜の内容とされる十善戒をいう。やがて従来の律蔵からとりいれられた種々の戒が、出家菩薩のための戒となり、新たな大乗戒が説かれるようになった。そして時代が下るに従って、声聞の二百五十戒も大乗の出家菩薩の戒として重視されるようになった。
 また菩提心を発した菩薩が発願する四弘誓願は菩薩の総願といわれ、これに対して法蔵菩薩の四十八願や普賢菩薩の十大願は別願といわれる。

cf. 誓願波羅蜜

菩薩大士

 菩薩大士はすべてのものを理解するために、執着しないということにおいて、無上にして完全なさとりをさとるのである。さとりを目的とする点で大士は菩薩と呼ばれる。有情の大集団、有情の大群集の上首たることを達成するから菩薩は大士と呼ばれる。
 菩薩大士といわれるのは(こういうわけです)。かのさとりを求める心(菩提心)、全知者性を求める心、汚れのない心、比類のない心、至高なる心であって、すべての声聞や独覚と共通しないもの、このような心にさえ彼は執着せず、こだわらないのです。なぜかといいますと、その全知者性を求める心は汚れがなく、こだわりがないからです。その汚れがなく、こだわりのない全知者性を求める心にさえ彼は執着せず、こだわりません。そういう意味で菩薩大士という名で呼ばれるのです。
 世尊よ、物質的存在を取得せず、同様に感覚、表象、意欲を、そして思惟を取得しないこと、それが菩薩大士の知恵の完成である、と知らねばなりません。また、如来だけがもつ十種の知力(十力)、如来だけがもつ四種のおそれなき自信(四無所畏)、仏陀だけがもつ十八種の精神的特性(十八不共法)を完成しないで、途中で完全な涅槃にはいってしまわないこと、これも、世尊よ、したがって、菩薩大士の知恵の完成である、と知るべきです。    〔八千頌般若経〕